「また来るからな」

そう私の頭を撫でながら言った言葉は私の心に深く染みこんで離れない。
貴方の声が忘れられない。


ドクターは奇跡だと言った。私は十年間、そう、十年間もずっと眠っていたのだ。短く揃えていた髪の毛は肩を越え、鏡で見た自分はずいぶんと大人びていた。成長は一応していたのだろう、あんなに小さくてコンプレックスだった胸も人並みには大きくなっていた。最初に体を起こしたときは酷い痛みが全身に駆け巡り、背中は床ずれで赤く腫れ上がっていた。十年ぶりに動かした体は自分のものではないみたいで困惑したが、何ヶ月かのリハビリで私は退院ができるまでに回復した。主治医だったドクターが言うには、治療費や私の身の回りの世話は一人の青年がしてくれていたのらしい。

らしい、とは言ったものの私にはその青年がはっきりと分かる。ニール、ニール・ディランディ。私にはずっと眠っていたときの記憶がある。こんなこと、普通のことではないと自分でも理解していたので誰にも言わなかった。こんなことを言って折角退院した病院から精神病院に移るのは御免だったし、好奇心の塊の医者たちに脳の中を診察と称されて弄くられるのも真っ平御免だった。眠る自分を見下ろすように、まるで幽霊にでもなったかのように十年間、自分とニールを見ていた。最初は何が起きているのか分からなく、自分は死んだのかと思ったが機械が測る私の脈は正常で、何度もニールに話しかけても彼はベッドの上で眠る私を見つめるばかり。何かの漫画で見たように自分の体に入ろうとしてもすり抜けてベッドの下についてしまう。ベッドや自分の体はすり抜けることが出来るのに何故か床はすり抜けれないと知り思わず笑いがこぼれたが、はじめの数週間は私は可笑しな夢を見ているのかと気が狂いそうだった。

だが、何度も何度も私のお見舞いに来てくれるニールを見ているうちに、これは神様が私にくれた普通の人は体験できないような素敵な体験なんだ、と思い込むようにするとすぐに単純な私はそれが苦痛には感じなくなった。何故私がこんなところで寝ているのか、ニールは来ているが彼の両親、いつも彼にくっついている彼の妹、私の両親が何故こないのか、それが分かったのは私の部屋にあったテレビから流れるニュースを見たときだった。破壊されたバス、建物、ビニールの被せられたたくさんの人・人・人。そうだ、思い出した。私が最後に見たのは母親の、千切れた腕、だ。私も、もしかしたらあそこに並んでいたのかと、何故か冷静に考えることが出来た。ああ、テロに巻き込まれたのだ・と。

ニールたちは祖父母の下へと引き取られたらしい。ニールは眠る私にたくさん話をしてくれた。私の両親と彼の両親は仲がよく、その付き合いで私とニールも仲が良かった。ニールにはよくいじわるをされて泣かされたことがあったけど、私たちはそれでも仲が良かったのだと思う。だからあんなに一緒にいることができたのだ。さすがの私でも嫌いな男の子といつも一緒にいるなんて器用な真似、できそうにはなかったから。彼の妹のエイミーは同性ということもあり私にも懐いてくれていて、私は一人っ子だったので妹が出来たみたいで嬉しかった。あの日も、ただ一緒に出かけていただけだった。ニールたちにお土産買って来るからね、と笑いながら言ったのを今でも覚えている。エイミーの小さな手を握って歩いたのを覚えている。帰ったら皆でご飯を食べようか、と約束したのを覚えている。何故、私たちは巻き込まれなければいけなかったの。

年頃だった私たちは知らず知らずの内にお互い一緒にいるのが恥ずかしかった時期があり、一時期は離れていたのだが、やはり私はニールたちと一緒にいるのが好きなのだと再確認させられただけだった。そんな時期は無かったとでも言うように私たちはまた一緒に過ごすことが多くなり、おそらく私はニールに淡い恋心を抱いていたのだと思う。

、お前は何時起きるんだろうな。寝起きが悪いもんな、は』

いつまでも目を覚まさない私にニールはたくさん、たくさん話しかけてくれた。私はそれを真上から見ている。死んだように眠っている自分と、その手を握って話しかけるニール。私は何度も泣きたくなって、実際にこの不思議な体で泣いた。涙は出るのにどこも濡れない可笑しな体。すぐに自分の体に戻って、ニールに抱きしめてもらいたいよ。、お前は泣き虫だな、って。

段々と成長していくニールとは裏腹に、私の体は成長を止めてしまったかのように変わり映えが無かった。でも髪の毛は伸びるらしく、ニールが器用に動かない私の髪を切ってくれていた。車椅子に乗せられて、散歩にも連れて行ってくれた。何度も何度も話しかけられ、私は声が届かないと知りつつ返事をしていた。

私には両親の他に肉親と呼べる人間がいなかった。しかし医療費などは国の制度や両親の残した遺産などでなんとかなっていたが、やはりそれはいつか底を尽きる。減るばかりで蓄えられないのだから当たり前だが、私はおしゃべり好きのナースたちが話しているのを聞いて、私の治療もここまでなのかな・と思った。テロから三年、目の覚まさない私はもう十七歳になっていた。あーあ、ここで終わっちゃうのか、私の人生。花盛りの年齢なのに、もっと楽しいことがしたかったし、結婚とかも経験してみたかったな。…ニール。私は恋がしたかった。彼と、恋愛がしたかった。こんなに何年も私のもとへと通い続けてくれているのだ、なんとも思っていないということはないだろう。ここで目を覚ませれば、もしかしたらできるかもしれないのに。…いや、そこまでは望まない、ただ目を覚まして、ニールに”おはよう、寝坊助さん”って言ってもらって、それだけで…いいのに。

『俺がお前を助けるから、お前は何も心配しなくていい』

どうやらニールは私の医療費を肩代わりしてくれているらしい。どうやってお金を稼いでるのか、などは私にはどうでもよかった。ニール、ニール、触りたいよ、ニール。もう随分と大人びた顔つきになった彼には昔の女の子みたいな可愛らしさは消えてしまった。その瞳に影のようなものが映りだしたのは今に始まったことではなかったが、私はニールがそれに呑み込まれてしまうのではないかと怖かった。

『俺は世界を変える。もう誰も巻き込まれることのないような世界を』

どうして神様は私にこんな残酷なことをさせるのだろうか。唯、意識を失っているだけだったならどんなによかっただろう。ニールの声が聞こえずに、目を覚ましたときにニールが側にいるだけだったらどんなによかっただろう。ニール、ニール、お願いだからそんな顔をして私にキスをしないで。誰も見ていないと分かっていなくても、私は泣いただろう。私はただただ子供に戻ったみたいに泣いた。おかしいな、最近は泣いたことは無かったのに。ニール、私を泣かせるのはいつだって貴方なのね。

植物状態の人間は何がきっかけで目を覚ますか分からない。刺激を与えるためなのだろう、ナースがつけていったテレビにはニュースが流れている。私はその時間が好きだったし、ここから出られない私がニールの他に唯一外のことを知れるソースだったのだ。最近は同じことばかり、CBという組織の話。一人のおじさんが戦争根絶を掲げ、番組では好き勝手に討論している。ニールはこれに所属しているのか。ニールは私に小声でそのことを教えてくれた。最初はユーモアセンスのないジョークかと思ったのだが(だって、ロックオンだなんて、とっても可笑しな名前!)、それがジョークではないと分かったのは何が原因だったかな。

『戦いの無い世界が欲しい。、お前と生きることの出来る平和な世界が』

まるでプロポーズみたいな内容。私はおかしくて少し笑ってしまった。ニールは相変わらず私のところへ来てくれる。前よりは頻度は下がったが、それはしょうがないのかもしれない。だって、彼はもうテロリスト。テロリストが十年も目を覚まさない幼馴染のお見舞いに来るなんて、なんだか可笑しな話。いつだって自分のことは後回しにするのはもう治せない癖なのかもね。ニール、伊達に私は十三年も貴方を見てきたわけじゃないんだよ。すり抜けないようにニールを抱きしめることはもう慣れた。本当に触れたらな、と何度も思った。触り方すら忘れてしまった私をニールは抱きしめてくれるかな。

最後に来てくれたのは、私が目を覚ます三週間前。「また来るからな」って私の頭をくしゃりと撫でて出て行った後姿を私はずっと見つめていた。十年間、私はそうやって私から離れていくニールを見てきた。だけどそのときは何故か行ってほしくなくて、何度も彼の名前を呼んだ。ドアをくぐる少し前でニールは止まって、一度だけ振り向いた。視線はベッドの上の私ではなく浮いている私に向けられているように感じて私はまた彼の名前を呼んだ。彼は柔らかく笑ってから、見えなくなった。

気付いたときにはもう私の意識は体に引っ張られて中に収まっていた。あれ、と思ったらいつも見てきた天井を仰いでる状態で、ぽろりと涙が零れ落ちた。動かすと激痛を伴う腕をなんとか動かして、目を押さえたけれどもそれは止まることは無かった。ニール。彼はもうどこにもいないのだと、理解してしまった。私を抱きしめることもなくいってしまった。

「ぅ…あっ」

十年ぶりに声を出すことは容易ではなく喉が引きつるような感覚がしたが、今の私に正しい言語なんていらない。今必要なのは、ただ泣き叫ぶ声だけだ。ニール、私は最後まで貴方に泣かされてばかりね。





十年のブランクは想像していたよりも辛いものだった。見慣れたはずの町は骨格は同じだったが姿を変えて、私の知らない機械や言語が飛び交う。私の住んでいた家は既に売り払われていたが、貯金通帳を見ると信じられないほどの額がそこに収まっていて、一生遊んでくらせるような桁に私は眩暈がした。ニール、貴方どこまで私の面倒を見るつもりだったの。私はそのお金を使うことに戸惑ったが、私が使えるお金はもうそれしかなかったのでありがたく使わせてもらうことに決め、まずは住居を構えることにした。最初はホテルに泊まる日々が続いたが、ようやく条件に見合う場所を見つけることが出来たので荷物も何も無い私は身一つで女一人が住むには不便のないその部屋へと移り住んだ。生活様式を整え、色々と落ち着いたころに私は黒のパンツスーツと花束を買った。

教会の裏に位置するそこに、私の両親、彼の両親と妹が眠っている。墓石に刻まれた名前を見てようやく私はしっかりとその事実を受け止められた気がした。ごめんね、十年も待たせてしまって。不思議と涙は流れなかった。あの奇妙な体験をしている間にたくさん泣いた所為もあるだろう。添えられている白の花束を暫らく私は見つめていた。ああ、彼も来たのか。しゃがみこんで買ってきた花束を添える。私が来るの、待ってた?誰と無く問いかけるが、予想通り返事は帰ってこない。今日は良い天気よ、快晴ってこんなことをい言うのかしら。この澄んだ青、まるで貴方の目みたい。ずっと空から私たちを見ていてくれるのね。まだ自分のことを後回しにする気?どこまでも馬鹿よ、ニール。



一度だけ、ニールに愛していると言われたことがある。あれは私の誕生日だったか、夜にふらりと病室に現れて言われた言葉。いつもみたいに椅子に座って、私の顔を見てそっと撫でてから、ぽつりと零した。綺麗な青の瞳が好きだった。その目で私を見るのが好きで、上からよく見ていたがそのときばかりは目のことなんて気にする余裕はなかった。なんで今言うのかな、ニールは。ずるいよ。先日ニールが整えてくれた私の髪を梳きながら、ニールは笑いながら私に言った。

『もしこの声が聞こえていたら、お前は笑うかな?』

ええ、笑ってやるわよ。指をさして笑ってあげる。「そんなのとっくに知ってた」、って。



君の色も知らないまま




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