生きるのに、純粋であってはいけない。それがあの女に教えられた、最後のもの。


いつもこの瞬間は指の先まで冷たくなる。スコープを覗くと高級ホテルの一室、風呂上りの女の長い髪が水で濡れたまま後ろにまとめられている姿が映る。このトリガーを引けば、あの女は風邪を引く心配はなくなるのだろうな。家族を失ったテロの日から落ちに落ちて、汚れようと決めて入った組織で最初に教わったのは人を上手に殺すこと。初めて手にしたのは手に余る38口径のリボルバー。初めて人を撃ったときは、どんな気分だっただろうか。油断をするな、情けをかけるな。躊躇したその次にはお前の頭は吹き飛んでいる。BOMB!

スコープ越しにターゲットを見て感じる思いはただ焦燥。ただあのテロを起こした犯人が知りたかった。知りたいだけではない、この手で敵を討ちたかった。なけなしの伝手を使い入ったはいいものの、組織の連中はそのテロに関する情報をまだ掴みきっていないようだ。情報を報酬に何人も殺してきたのに、これでは意味が無い。無意味でしかない!時折ふと俺はなにをしているんだろう、と思うことがある。何故この両手には銃がある?何故俺の前にはもう動かない冷たい”人間”だったものが転がっている?何故、赤を見慣れてしまったのだろう。しかしこの手で撃ってきたのはみんな悪党だ。戦争を裏で起こしているやつらだ。そんなやつら、テロを起こした連中と何ら変わりは無いだろう。そう、だから心は痛まない。人間らしい心はあのとき、両親と妹の成りの果てを見た瞬間にどこかへ消えてしまった。スコープに映るこの女も、なにか大きな役割を持った、悪人だ。家族を殺した奴等と同類の生きていてはいけない人間なんだ!躊躇はしない、情けはかけない。油断をしてはいけない、気付いたときには死んでいるぞ。頭へ照準を合わせる。あとは引き金を引くだけ。目が、合った。

「…!」

任務は失敗だ、気付かれた!しかし何故?偶然にしてははっきりとこちらを見ていた。あちらからは絶対に気付かない場所を何度もシュミレーションして選んだのに!こちらだってスコープを覗いていなければ肉眼で確認することは難しい。(…化け物かよ!)任務の失敗はすなわち仲間の危険を意味する。本当ならば既にあの女の脳漿をホテルのスイートルームの高級な壁紙や絨毯にぶちまけていなければいけない。組織のリーダーからきつく言われていた。失敗は許されない。他のターゲットが相手ならまだ対処はできるが、あの女は危険だ。一発で、確実に、気付かれないうちに殺らなければ、こちらが殺られる。それほど危険な任務だったのに!失敗した!今まで失敗なんてしたことがなかったのに。

「Hey,boy?Please freeze. …動くなよ?」
「…っ」

ターゲットの女のいるホテルから南にちょうど300m、その場所に高いただの企業のもののビルがある。そこの屋上はターゲットを狙い打つのにちょうど良い場所に位置していた。地上から約234m、周りに障害物は無し。今夜は風すらなく、コンディションもバッチリだったはずなのに。囲まれた。この会社のセキュリティシステムを疑う前に、自分の鈍さを疑う。気付けなかったなんて、なんという迂闊!なんていう失態だ!これで自分のいる組織は潰される。それくらい相手からの殺気で分かる。それほど長く裏の世界に慣れてしまったのだ。

ライフルを近くに投げ捨て手を上げる。頭に硬いなにかが当てられて一瞬死を思い描いたが予想された衝撃は来なかった。代わりに腹に一発、男の拳がめり込んだ。がは、という音と共に肺の中の空気が全て外に出る。膝をついたところで腕を強く引き上げられ、無理矢理立たせられる。いたぶった後に、殺されるのか。父さんと、母さんと、エイミーの敵を討たないままで。ぎり、と歯を食いしばった音が聞こえた。鉄の味。いまので唇が切れたらしいがあまり痛覚は無い。逃げれるか?相手は何人だ?…無傷で、いけるか?最悪体に二、三発穴が開くことは覚悟して一歩を踏み出そうとしたら、力強いパンチをプレゼントしてくれた金髪の男が何かを呟いた。

「ボスがお前に会いたいらしい。お前、ここで死んでたほうがよかったかもな」
「はは、違いねぇ」

仲間の男が金髪の男に続いて笑い出した。仲間内でだけ発せられるふざけた雰囲気。しかし聞き逃さなかった。ボス、それは今回のターゲット。絶対に殺さなくてはいけなかった相手。先に情報を掴んで自分をマークしていて、自分には何のガードもしていなかった、ふざけた女。会うだって?直接殺すということか?女殺し屋、




連れてこられたのは先程までスコープ越しに見ていたあの部屋。高級ホテルの一室。家具やシーツまでもを高級品で固めた最も悪趣味な場所の一つだ。手を後ろで縛られて跪かされ、髪を引っ張られて視線が合う。殺し屋としてギルドを纏めているという割には若すぎる。年齢を特定は出来ないが二十台前半ということは間違いなさそうだ。この女の指示一つで、戦争を起こすことができる。それをしないのはただ興味がないだけか。裏社会の絶対権力者の一人。逆らえば殺される、裏切れば殺される、殺そうとすれば殺される。他のどんな仕事で失敗しても、この仕事だけは失敗してはいけなかった。スナイパーとしての実力を組織一にしただけでは敵わない相手だった。

「今死ぬか後で死ぬか、選ばせてあげる」

眉間にリボルバーを突きつけられる。安全装置は当たり前だがついていない。トリガーにもう少し力を入れれば自分の頭の中身がこの部屋を赤く染めるのだろう。女はにやにやしたままカチ、カチとトリガー部分を爪で叩く。なんて悪人らしい顔だ。本人を目の前にしても信憑性が薄かったが、この女は本物だ。目が、人間のものとは思えない。米神に一筋、嫌な汗が流れるのが分かった。本物の殺気。自分に向けられたもの。組織に入って初めて習ったことは人を殺すこと。いままでそんなものとは何一つ縁のなかった自分にとっては全てが衝撃的だった。狙うのは、頭より心臓。外してもどこかにあたる可能性は高くなる。その分自分が生き残る可能性も引きあがる。殺す方法、できるだけ殺されない方法。初めて銃を撃ったときは、その振動に驚いた。こんな状況、初めてだ。初めてでなくても、こんな殺気を向けられて正気でいられる自信はない。今はなんとか耐えているが、そんなの時間の問題だ。

今死ぬか、後で死ぬかだって?そんなの、両方とも御免だ!睨みつけている目はそのままに、そう吐き捨ててやろうと口を開こうとしたが恐怖のためか小さく喉が震えるだけで言葉にはならなかった。くそ、くそっ、…くそっ!!!殺すなら早く殺せばいいじゃないか!わざわざ自分の手で殺すためにこんなとこをまで呼び出したのか!?だったらなんて悪趣味なんだ!

「仲間のこと、考えてる?」
「…っ、」
「君があのビルに張り付いていたときには私たちのお仕事は終わってたのに。ね?」
「はい、ボス」
「っ手前!!」
「暴れるなこのガキ!」

という殺し屋はその仕事の徹底的ぶりや完璧さから敵に回さない限り最も頼れる人物だと他方から厚い信頼を得ていた。成功率は百パーセント。それは成功率が高い仕事ばかりを選んでいるからもあるが、それを抜きにしてもこの女の纏める組織は桁外れで巨大で影響力がある。見つかった時点で最悪の想像はしていたが、いくらなんでも行動が早すぎる。最初から情報が漏れていたとしか考えられないし、事実、そうなのだろう。小さな組織だった。だが今急成長を遂げていた組織で、少なからず愛着もあった。たぶん、自分を除いたら誰も生き残ってはいないだろう。ここはそういう世界だし、相手が相手だ。だからといって込みあがる感情が無いわけではなかった。縛られている両手を強く握り体当たりするようにもがくと後ろの男たちに床に押さえつけられる。柔らかい絨毯の毛がやけに神経に障った。

「さて、もう後ろ盾が無いことを知ったところでもう一度問いましょう。今死ぬか、後で死ぬか、どちらがお好みかしら?」
「…」
「今を選んだら私が直々に撃ち殺してあげる。手元は狂わない自信はあるけど、人間なんだからどうなるかなんて分からないわよね。私の暗殺を依頼した奴も見つけなきゃ駄目だし、どうせ君教えてもらってないだろうけど腕が鈍らないように拷問班に回してもいいわね。君がしゃべらなくてももうほとんど見当はついてるけど。まぁ、どっちにしろ今すぐ殺してくれって言わせてみせるわ」
「…後を選んだらどうなるんだ」
「私の下で死ぬまでこき使ってあげる」
「…あ?どういう…」
「分からない?引き抜きよ引き抜き」

手に持った拳銃をくるくると回しながら笑顔でそう言われて、俺は殴られて先程までずきずきとしていた腹の痛みも吹っ飛び今聞いた言葉を頭の中で反芻した。引き抜き?引き抜きって、なんだ?いや、引き抜きの意味は知っている。優秀な人材やらを他の組織から自分の組織へ勧誘することだ。しかし今の自分には組織はない。(目の前の女に潰された)それに首を縦に振らなくては殺すと脅された。数秒意味が理解できなくて目の前で回っていて暴発しないか少し心配をしている拳銃(見る限りかなり改造されている)を見つめていたが、それがもう一度自分のほうへ標準を向けられたところでそろそろ時間切れだということを悟った。




とまあ出会いは最悪の形だったと認識しているが、相手は別になんとも思っていなかったただの気まぐれだったのかな、と思うと少しばかり胸は痛むものなのだなと冷静に思ってみる。あの頃に比べると身長も体の大きさも成長していて、当時立つと同じくらいだったのに今はを見下ろせるくらいになった。銃の腕前も周りからの反応やの評価などで自惚れではなく上達してしかもかなりのものになっていると自信を持っている。自分としてはあの出会いからはかなり大人になったと思っているのだが、未だに仕事を抜かしたプライベートで子ども扱いをしてくるが不満でならないのは精神的に大人になりきれていない証拠なのだろうか。

初めて本気で死を覚悟したあの日、首を縦に振るだけで命はおそらく助かっていたのだろうが、何を思ったのか俺はへ取引を求めた。取引と言っても、俺がのギルドに入る条件として俺の欲しい情報を全部俺にくれという側にとっては笑い事でしかないようなものだったが、案の定は大笑いした後にその取引を受け入れた。今思えばなんて馬鹿なことを言い出したんだ俺、と冷や汗ものだったが結果としてはその後その場にいた奴等にそのことを面白おかしく言いふらされて未だにそれをネタにからかわれることがあるくらいの精神的苦痛で収まった。結果オーライというやつだ。その場で撃ち殺されなかったのはやはりの気まぐれだったのか、それとも面白いと思ったのか、どっちにしろ気まぐれだ。直後肩を容赦なく撃ち抜かれたのはなりの歓迎の仕方だったと思うことにしている。少しだけ今は無い組織に罪悪感というか、そういう申し訳なささを感じていたのだがそれを見越して俺へ罰を与えたつもりだったのかその真意は本人にしか分からない。

手当てをされて完治するまで三週間かかった。しかし俺の欲しかった情報は療養三日目にして俺の耳へ届くことになった。それだけでも驚異的な速さだと驚いたのに、追い討ちをかけるように『もっと早く突き止められたんだけど他にもすることがあったから。三日もかかっちゃったけど許してくれるでしょ?』とのたまったのは本人だ。思っていた通り、あのテロは単独での自爆テロではなく、小さな組織が実行していたことだった。組織の名はKPSA。組織の中枢は中東にあり、AEUの軌道エレベーター建設に反対しての犯行。手前の自分勝手な行動に、何で他の奴等まで巻き込まれなきゃいけないんだ。実際に行動を起こして彼の家族を奪ったものはもう家族と一緒でこの世にいない。ならば今もなお悠々と生きている者に償わせればいい。一番頂点にいて、一番危険でないところで生きている奴に。そのトップの奴は名前を複数持っているらしく、本名をどれか特定までにはいかなかったが今までに使われたそれを全てデータ化して渡してくれた。俺は「こんなに早くに俺に教えて俺が情報だけ持って逃げるとかは考えないのか」と聞くと「思わないわね」と即答された。どこからそんな自信がくるんだと思ったが、右手で弄っている銃が”そんなことをしようものならいつでも逝かせてあげる”と物語っていたのでその場では苦笑いすら出てこなかった。

「裏で働く人間には二種類いるの。一つは心まで獣になった者、もう一つは獣になったつもりでいる者」
「アンタ、自分のこと前者だって思ってるだろ」
「当たり。でも実際そうなのよ、知らなかった?」
「とことん自分のことを悪く言う女だとは思ってた」
「生意気言うようになったわね。最初の頃は私のことみるといつも泣きべそかいてたのに」
「かいてねぇっつの!」

確かに恐怖は覚えていたが、決して泣きべそなんてかいていない。誓ってもいい!事あるごとに餓鬼餓鬼言うがあのころはもう16でそれほど餓鬼でもなかった。と思っている。二年経った今ではもう体つきは大人のそれと比べても遜色は無い。成長期に不規則な生活を送っていたにも関わらず身長はにょきにょきと伸びたし、トレーニングも欠かさずに毎日やっていたお陰でマッチョというほどではないが筋肉もついている。中身だって、窮地に立たされたときにどう行動すれば最善なのかやより安全に相手を殺すやり方をが望むほぼ近い形にまで持っていけるまでになった。だが、何故だろう、全くに近づいている気がしないのは。年齢的なものではない(こちらが年を取れば相手も年を取るので追いつくことなんて不可能だ)、内面的なもの。心の距離とでもいうべきなのだろうか、一歩近づくと同じ距離を一歩下がられている。決して自分のテリトリーに入れない。自分の本音は誰にも見せない。無性に、惹きつけられるのはその所為なのか。

「…なんでアンタ、こんなことしてんだ」

なにかを含んで言ったわけではない。ただ、気付いたら口走っていた。裏の仕事をしているやつなんて皆脛に傷のあるやつばかりだ。の生い立ちが気になったわけではない、とは言わないが、今まではプライベートに突っ込んだことを会話に出すのは妙に憚られた。だが、気がついたら。ぽろりと口を滑ったというやつだ。言った後で後悔した。

「こんなこと?こんなことって、こういう?」
「…まぁ、そうだ」

足元で目を開いたまま絶命している男の頭を足で蹴りながら、はなにか面白そうなことを聞いたような表情で笑った。死者に対する冒涜とか、死んだ後でも痛めるのは好きではないといった感情は特に抱かなかったのは、俺がこの世界に長く浸かりすぎた所為なんだろうか。や他の仲間に比べると短い時間かもしれないが、二年というものは意外と長いものなのだ。眉間に一発、表情は驚いているが恐怖や痛みはないままに死んだ、男。最初のうちはてっきり殺す前までに散々いたぶってから殺すものとばかりと思っていたからの一発でターゲットを仕留める殺り方には驚いた。聞いたところ、それが依頼に入っていれば至上の痛みの中で殺すがそうでない場合はリスクやスピードを考えて早めに殺すものだと教えてくれた。自分はスナイパーなので遠くから正確に一撃で仕留めることができて一人前なので、勝手に他の奴等は違う殺し方なのかなと勝手に思っていただけだ。

は問いに答えないまま、飽きたのか男の頭を軽く蹴って椅子に座った。椅子が血まみれで服が汚れるということは考えていないのだろうか。殺すときは返り血の一滴すらも服につけないくせに、意外なところで大雑把だ。だが椅子だけではなく、この部屋は今はもう血でまみれていない部分が無いのだから座るとなると必ず相手の血をつけなくてはならないからの性格も考えたら「まぁ、いいかな」と思ってしまう。だが死体が何体もある部屋にいつまでもいれる神経を俺は持っているわけではない。普段死体はスコープ越しにしか見ないからそう思うのだろうけど。遠距離以外からも正確に殺せるようになれ、社会勉強だと連れ出されたはずだが結局は一人で全員をやってしまった。前の組織がそうだったように、も上から指示を出しているだけのトップかと思っていたがそんな予想は大外れで、は難易度の高いものから下っ端でも簡単に出来るものまでとてもアグレッシブに行動する女だった。

「なんでだと思う?…なんて謎掛けはもう使い古されたかな」
「ちょっとな」
「気付いたら、どっぷり浸かってたのよ。人殺しとか、他にも色々。それが必要だったってのもあるけれど」
「…後悔したことは?」
「無い。って言えたらよかったけど、最初からこうだったわけじゃないもの。もしかしたらこの他にも道があったのかもしれないって考えると、”なんでこんなことしてるんだろ”、ってね。今思えば笑い話よ」
「どうやったらアンタみたいに強くなれるんだ」
「それは技術?それとも心?」
「両方だ」
「欲張りね。ふふ、迷ってるわね。”俺はなんでこんなことしてるんだろ”?」
「”俺はこのままでいいのか”。ってのもあるけどな」

それは、ずっと心の奥で燻っていた思いでもある。”本当にこんなことをして家族のためになるのか?”、”一体俺は何をしているんだ?”。形は違えど人を一人殺すごとに、何人もの人間が悲しむ。俺もその中の一人だったはずだ。自分で選んで”こちら側”に来たのに、未だにその感情に縛られている。人を殺すのは簡単だった。そのための技術もすぐに身に付いた。だが時折、友達と遊んでいる子供を見たり、スクール帰りでジャンクフード店にたむろしているハイスクールの生徒を見るとそう思う。『自分も、本当ならここにいたはずだ』。何が悪かったのだろう。その度に、自分の中で復讐の炎が燃え上がると同時に違うどこかで冷たい炎が心を冷やす。この気持ちに名前をつけるとしたら、そう、「空しい」というものだろうか。ターゲットを殺しても「空しい」。言い寄ってきた女を抱いても「空しい」。心に広がる虚無感を埋めるためにはなにをしたらいいのだろうか。自分から家族と普通の生活を奪った奴を殺せばこの穴は埋まるのか?だが、それが終わっても残るのは「空しさ」だったら、俺はどうすればいいのだろう。なら、助けてくれるのだろうか。この大きな穴を、埋めてくれるだろうか。

「それは私が教えることじゃないわ。思春期の子供の悩みに私が答えられることは無い。自分で考えなさい、坊や?」

希望があるならそれに縋りつきたかった。彼女ならば自分を受け入れてくれそうな気がした。どうしてそんなことを思ったのだろう。返ってきたのは、突き放す言葉。目の前の瓦礫の下に、家族がいるのを見たときのような絶望が目の前を覆った。銃口は自然とに向けられた。

驚いた様子はない。”アンタに私が殺せるの?”と言われているようで癇に障った。本当に殺してやろうか、というどす黒い気持ちが胸の辺りでぐるぐるしている。ここでこの女を殺せばすぐに組織の追っ手が来て、身元不明の死体になることは間違いないが十代の行動なんてものはほとんどが衝動だ。いいじゃないかニール、お前がんばったよ。ここで終わりにしてもいいんじゃないか。その場だけの感情に呑まれる感覚がした。トリガーに手を掛けた瞬間に視界が一転した。大きな音を立ててターゲットとその護衛だった奴等の血が染みこんだ絨毯の上へと倒れこむ。手に持っていたはずの銃はの手の中、そして今度は持ち主を狙う凶器になる。狙っていたときに忘れていた汗が一気に吹き出た。

「ターゲットを狙うときは冷や汗をかかないし呼吸も乱れない。いい腕だわ。さぁて、奇しくもこれは私が最初に君にプレゼントして、出会った日に君の肩を撃ち抜いたものでもある。今度は頭を撃ち抜く破目になるのかしら」
「…」

この女は殺せない。目の前に突きつけられた真実が、やけに重かった。出会った頃の様に眉間を狙われ、変わらない笑顔。立ち上がろうとして踏みつけられた肩。心臓が一際大きく高鳴って、自分の体を絨毯の上で弛緩させた。「Good by」と動くと予想された唇は、「経験者のアドバイスとしては」と全く予想外の言葉を紡ぎだした。

「迷ったなら最初に誓った目標を思い出すことね。それ以外は終わった後に考える」

呆気に取られていると手を差し出された。掴まって立てということらしい。殺されるとばかり思っていたのでこの事態にはどう対応していいか分からずにいると、そのままドアへとはスタスタ歩いていく。帰るぞ、ということらしい。ドアへ差し掛かったところで銃を投げ返された。危ねえ、と思いながら先程言われた言葉を思い出す。なんだったか、最初の目標を思い出して、それ以外を考えない?それがアドバイス?…つまりは、初心へ戻れということか。復讐が終わるまでは、付き合ってやる、と。…狂っている、とは今に思ったことではないが、――なんて最高な女なんだ!




「オレの筆下ろしときなんてよぉ、無理矢理だったもんで食われるかと思ったぜ!」
「実際食われたんだろうがよ!骨までしゃぶられたんだろ!?」
「違いねぇ!だからお前いつも金持ってねえんだろ」
「ばっか、それはボスにいい酒飲んでもらおうとよぉ」
「お前にボスの相手が勤まるわけ無いだろ、自分をよく見てみろ。あこに鏡あっからよ」
「違ぇよ!オレの場合はてめえらなんかとは違うもっと崇高な」
「オイお前もなんか話しろよ。遊んでるってことは知ってんだぜ」
「あっちが勝手に寄って来るんだよ」
「かー!これだから顔のいい奴は…!女ってのは男の中身を見てねぇんだ!」
「見てるからお前を選ばねぇんだろ!」
「んだと!?」
「お前らオレの話を聞けよ!!」
「お前のボス語りはもう飽きたんだよ。いっつも同じこと言いやがって」
「おおーい、ニール。ボスが呼んでたぜー。何しでかしたんだお前?」
「何も失敗はしてないはずなんだがな…、悪い、行ってくる」
「おう、さっさと帰ってこいよ」

「また暗殺の依頼でも来たんじゃないのか?」
「ニールは可愛がられてるからなぁ〜」
「あんなんまだ餓鬼だっつーの!オレのほうがボスの好みだ!」
「アホ言え!この酔っ払いが!」
「あーあ、俺ももうちょっと若ければ…」



「聞こえてたわよ。男って集まるとすぐああいう話するわよね。飽きないの?」
「俺は進んでああいう話をするわけじゃ…」
「ならもう少し年取ればなるかもね」
「もしかして、用件ってそれだけってことは」
「んなわけないでしょ。はいこれ。一週間以内でがんばって」
「がんばって、ねぇ…」

数枚の書類を渡されて、中身をぺらぺらと見る。ターゲットの情報、いつも通りだ。最近では依頼の中に俺を指名するものも増えてきた。名前が広まることはあまり好まなかったから、偽名をつけてもらってそれで通していた。本名を知っているのは仲間と、昔の知り合い、そして情報にとんでもなく敏い敵だけだ。を見ると仄かに頬に朱が射している。酒を飲んでいたらしい。は一人で酒を飲むのが好きらしく、いつも自分の部屋で楽しんでいた。今日俺を呼んだのは気が変わって相手をさせるつもりなのかもしれない。断ると必要以上に絡んでくるので了承するのが正しい扱い方だが、酔っ払いはするくせに耐性がついているのか潰れはしないので最悪の場合は朝まで付き合わされることがある。そのお陰か自分も酒には強くなったが、このペースで進んでいると体を壊しそうなのが怖いことだ。予想通りグラスを進めてきたのでいつもの通り、付き合うことにした。

酒が入ると気分がよくなる。体も温まるから気付薬として使うこともあるが、今はただ酔っ払うだけに体に入れているようなものだ。最初は苦くしかなかった酒だが、慣れればなかなかいける。大酒のみの資質がある、と褒められたことがあるが、それは本当に褒められていたのかどうかは今考えると微妙なものだ。話も弾んできて、気分もよかったものだから。つい、だ。つい、言ってしまった。普段なら自白剤を打たれてもきっと口を割ることは無いと思っているがどうしてかの前ではうっかりしてしまうことが多い。そんな風に仕向けているのであれば恐ろしいことこの上ないが、に安心感を持ってしまっていることが原因なのだろう。殺し屋の女に安心感を持つなんて自分でも大概どうかしてると分かっている。

「好きだ」
「あら、私もよ」
「俺はアンタを愛してる、

かわそうとしているのか、本気に取っていないのかは素っ気無い態度だったが、酒の力はなんとも恐ろしいというかなんというか。顔を無理矢理こちらへ向かせて唇を奪った。その勢いのままベッドへと押しつぶすように倒した。とのキスは甘いものではなく、先程まで飲んでいた酒の苦い味だったがそのほうがこの女には合っていると思った。抵抗らしい抵抗はされなかったが、ほんの少しの拒絶を伝えるようにやんわりと押し返された腕に堪らなく悲しくなった。

「君なら、相手してくれる女の子はたくさんいるでしょうに。私を選ぶあたり、大概悪趣味よ」
「俺はがいいんだ。じゃないと駄目なんだ。好きなんだ。応えてほしい。なのになんでいつも逃げるんだ!」
「…だから餓鬼だっていうのよ、君は」
「アンタが思ってるほど餓鬼じゃない!」

本当なら、伝えないつもりだった。伝えても自分の望む返事は来ないと気付いていたし、そんな好意を寄せられてもの自分に対する気持ちは変わることはないと分かっていたからだ。仕事に関しては信頼のできる、でもプライベートではまだ頼りないところがある年下のスナイパー。きっと、これからもずっとそれ以上の感情は抱かないのだろう。分かっている、理性では分かってはいるがそれ以上の感情を抱いて欲しい。自分をちゃんと見て欲しい。子ども扱いをして、いつもいつもかわさないで欲しい。にはよく感情が分かりやすいと言われるが、以外の人間の前で感情を素直に出すことがないからだ。それを、分かっているくせに!分かっていてなぜ知らない振りをするんだ。分からない、分からないから知りたいのに、それを許してくれない。俺だけにではない、は誰にも許さないんだ。どうしてそう考えるようになったかの過程は知らない。なにか大きな転換点があったのかもしれない。元々そういう考え方だったのかもしれない。分からない、分からない、何も教えてなんてくれない!どうしようもない思いは今爆発した。愛しい唇は自分の望むものをくれはしない。それ以上言葉を聞きたくなくて、塞いだ唇はやけに熱かった。




朝目がさめると横にはいなかった。シーツの温度から、ついさっきまで隣にいたのは確かなのに。朝食のときにはちゃんといたが、おはようと言葉を交わすだけで後はなにもなかった。何かが変わっているのではないか、と少しでも期待していた自分がやけに滑稽に思えて、昨夜満たされていたと思った心は、それはお前の独りよがりだ、と突きつけられたようでまたぽっかりと穴を開けたようになった。そうだ、色恋なんて俺には必要ないじゃないか。欲しいものはいつだって手に入らないから。初心に戻れ、そうだ、そうだよ。俺は家族を殺した奴等に復讐するために生きてるんだ。この組織に入ったのだって、それが目的だろう?あの女も最初から利用するつもりだったじゃないか。今更、どんな態度を取られたって、どうってことない――はずだろ。



「ターゲットの死亡を確認。今から戻る」

やはり自分は敵に姿を晒しながら戦うのより遠くからこそこそと狙うほうが性に合っているらしい。相手の感情を直接見なくて済むからなのか、どんな深層心理からそうなのかは知らないが、拳銃よりもライフルのほが手にしっくりくるのは事実だ。いつも通り仕事を終わらせて、いつも通りに帰る準備をする。頭に当たる硬い感触は、いつも通りではない。

「Hey,boy?Please freeze. …動くなよー?」
「…なにしてんだ、あんた」

笑いを含んだ声で言われてしまえば一瞬構えたのすら馬鹿らしくなって動くなよと言われたが無視して振り返れば、案の定がいたが、その表情が笑顔ではなかったのが予想外だった。あの夜からは時間は経っているが、それでも忘れ去ってしまうほどに時間は過ぎていないし忘れたくても忘れようの無い夜だった。他の女を抱いたときは翌日には顔さえ思い出せないのに。

「お仕事ご苦労、助かるわ」
「心にも無いことを言うなよ、何しに来たんだ」
「最近、なーんか妙な連中が君のこと探してるらしくって」
「妙な連中?」
「うん、情報もかく乱させられてて面倒臭くて堪らないわ」
「はあ…」
「てわけで、関わるの嫌だから君もう組織から抜けてもらうわ」
「…は?」

お気に入りの銃をくるくると回してはそう言い放った。の言葉に思考がついてこないのはこれで何度目だろうか。いつだって突拍子もないことを言って、自分の心を掻き乱してくる。組織から?抜けてもらう?…死ぬまでこき使うって、言ったじゃないか!

「それだけよ。たぶんその連中が拾ってくれるだろうから大丈夫でしょ」
「ちょ、ちょっと待て!な、なんなんだ行き成り」
「時期が来たってことね。最後の仕事、ちゃんと見届けたわ」
「俺がアンタを抱いたこと根に持ってるのか!?そんなことで…っ、」

男にとっての抱く、と女にとっての抱かれる、の違いは互いには理解できないほど解釈が違う場合がある。気丈に見せて実はナイーブな精神を持っていましたと言われたら嘘をつけ、と言いたくなるがもしかしたらの心に深い傷を負わせてしまったのかもしれない。男である自分に強姦に近い形で繋がったことをそんなこと、と言える権利はないとは分かっている。だから、もう顔も見たくなくて出て行けと言うのか?だが俺の知るという女はそれほど弱かったのか?それともその情報は本当で、単に面倒くさくなったのか?そうだとしても結局は切り捨てられたという点では同じことだ。頭がパニックを起こす寸前まで行ったところで銃を向けられて黙るしかなくなる。ああくそっ、もう何度目だ?この女に銃を向けられるのは。

「好きとか嫌いとか、そういう時期は終わったの。というかそんな甘い考え持ってこの世界に入っちゃ駄目よ」
「…俺はもう、必要ないのか」
「君ほどの腕の人材は中々いないから勿体無いけどね。元々こんなに長く私のもとで大人しくしてるなんて思わなかったし」
「それは、アンタが脅したから…」

そうじゃない。だがそうじゃないのは自分も相手も分かっている。いつの間にか惹かれていたから。復讐しかなかった心に違う感情を抱かせたから。

「君は、最後まで人間らしかったわ」
「俺は…」
「本当なら途中で獣になるかとも思ったんだけど、とんだ見当違いね。がっかりだわ」
!」
「君ならどこでも上手くやっていけるでしょ、そろそろ独り立ちしなくちゃ」
「なんで…!なんで俺じゃ駄目なんだ」
「この世界で生きていくにはね、純粋じゃ駄目なのよ」

目が、優しかったから。そのときに見た笑顔がやけに綺麗で、絶望させられたから。だから言葉は出なかった。もう決められた、俺はもうこの組織に入れない。

「私ね、殺されるなら君がいいなってずっと思ってた」
「俺は、御免だ」
「だから私が忘れられなかったら殺しにおいで、それくらい餞別にあげる」
「嫌だ、そんなのいらない!」

なんでだ、この女は利用するだけの女だったはずだろう。どうしてこんなに俺の心を占めて止まないんだ!なんで俺はこんな女を好きになったんだ!こんな、最低な女…。ただの、情報元としての認識でしかなかったのに、厄介な組織から抜け出せて清々するはずなのに、どうして俺はこうももがいているんだ?こんなんだから、好きな女に餓鬼扱いされるんだ。俺は、とんでもなく餓鬼だ。諦めが悪いぞニール・ディランディ!お前はいつも飄々と厄介事を避けてきたはずだろう。今回も、そうすればいいだけじゃないか!はおそらく酷く間抜けな顔をしているであろう俺の表情を見て、仕方ない子ね、という顔をした。顔に熱が集まる。これで本当に大人になったつもりでいたのか俺はっ。

「ニール」
「…」

は人の名前を呼ぶことは滅多に無かった。その理由は分からなかったが、誰に対してもそうだったのでのポリシーかなにかかと解釈をしていた。以前本人からは「特別なときにしか呼ばないようにしている」と酒の勢いで告白された。どういう意味かはよく分からなかったし、今でもよく分からないが今呼ばれるのならばずっと呼ばれないほうがよかった。

「さよならよ、ニール」

第一印象は、最悪だった。ただのターゲットで、殺すだけの相手。仲間になれと言われて、肩を撃たれた。この女信じられねぇと何度も思った。なのに何故か惹かれて、気がついたら好きになっていた。年上は、本当はあまり好きではなかったはずだが、は特別だった。酔った勢いで酒瓶で頭を殴られても、お前が気にしなくても俺が気にすると思いながらも下着姿のままうろつくを目で追って仲間に殴られても、元々理想は抱いていなかったので幻滅はしなかった。その気になれば、簡単に俺を殺してその”妙な連中”との関わりを断てたのにそうしなかった。何度も突き放したくせに、必ず後で拾いに来てくれる。最低で酒に煩くて自分より強くて暴力的で最悪だったけれど、最後まで最高に優しい女だった。




物事に熱くなると簡単に人間は周りが見えなくなってしまい、そうすると普段は上手くいくことですらそのときになると出来なくなってしまう。それは復讐という目標を果たす上では厄介なものなので、いつだって仮面をかぶっていた。何かに関わるときは決して熱くならない。どこか違う場所で見ている第三者のような気持ちで。感情移入をするな。初めて手にしたのは手に余る38口径のリボルバー。初めて人を撃ったときは、どんな気分だっただろうか。油断をするな、情けをかけるな。躊躇したその次にはお前の頭は吹き飛んでいるぞ。

「…BOMB!」

埃とレンガと安酒の匂いが満ちるバーで、一人で飲むというのは少々寂しいとは思うがたまにはこういう日があってもいだろう。女を連れていない所為で余計に女性からお誘いがかかることがあるが、今回は高いホテルへご招待してくれるお嬢さんが来客ではないようだ。

「ニール・ディランディだな?随分と探した」
「…俺なんかを探してくれてどうするつもりだ?逢瀬のお誘いならご遠慮しておこう」
「私たちには君が必要だ。力を貸してはくれないか」
「ふん、やっと来たな。お前らは代わりに俺に何をくれる?」
「世界を変える力を」
「物騒だねぇ、だが最高だ。乗ったぜ」

以前アジトにしていた屋敷には、何一つ残っていなかった。殺さなかった為にいつか危険分子になるかもしれない俺から身を隠すためか、ただのの気まぐれか。どちらにせよ、裏社会一の情報網を持つ組織に対抗するには俺個人が持っている情報網なんて微々たるものでしかなかった。諦め切れなかったわけではない。どれだけそれが愚かなものか分かっていなかったわけでもない。でもどうしてももう一度、姿を見るだけでもいいからに会いたかった。だがそれで諦めた。しつこい男は嫌われるというのはいつの時代になっても変わらないルールだからだ。

「あんたらも組織なんだろ?その名前くらい教えろよ」
「…ソレスタルビーイング、君と共に世界を変革する組織の名前だ」
「天上人、ね。大層な名前だ。益々面白い。で、その組織には俺より年上はいるかい?」
「…?」

俺の後ろに立っている男が怪訝な顔をしたのが空気で分かった。その予想通りの反応に俺は隠さずに笑うと余計にそれは重くなる。これ以上行き成り突拍子のないことを言ってこいつは頭が変だと思われるのは不本意なので、ネタバレはしておこう。、あんたにはたぶんもう一生会えないだろう。でも、こういう形で思っていてもいいだろう?俺が世界中で活躍するのを見ていてくれよ。

「俺、年上がタイプなんだ」

アンタに見せれなかった大人の仮面をつけて、俺は世界を敵に回します。



(今日は最果てがよく見える 080430)
inserted by FC2 system