「…坊ちゃん」
「イルミ様」
「イ・ル・ミ・さ・ま!」
「ご主人様でも可」
「馬鹿か!」

 思わず今着ている服を力の限り破り脱ぎ捨てそうになったが寸前のところで”ご主人様”に止められ、は悔しさのあまり歯軋りをした。
 冷静になって自分の着ている服を見下ろす。紺色を基調とした膝下丈のロングスカート、上半身はかたくなに露出の控えたデザインで肌が見えるのは手首から先だけ、襟元ではリボンが結ばれている一般的なヴィクトリアン型ハウスメイドスタイルだ。違う点と言えばエプロンが濃紺であることだけか。不必要なほどに上等な生地でできている。手触りも良い。
 近年こういった類の店が増えた中、このデザインは古風でいて上品、こういう店員のいる店だったらも行ってもいいと思えるようなものであるが、それはあくまでもが”見る側”であった場合の話だ。自分自身が身に着けているとなると途端に萎えてしまう。
 しかしそんなの心境を知ってか知らずかイルミは「似合ってるよ」と言い再びは下着姿になることを厭わないくらいにこの服を破り捨てたい衝動に駆られた。

 事の発端はこうだ。

 晴れ渡る日の出来事だった。が朝目覚めると仕事用の携帯端末にメールが来ていた。
 仕事事態はさして大変なものではない、日常的に行っているようなものだ。すぐにOKの返事をして、準備をしてその仕事場へと向かった。ここまではいつもどおりだった。
 違ったのはその”仕事場”で他の同業者と鉢合わせをしたことか。お互いに臨戦態勢を解いた後、顔見知りであったことから情報交換をし、どうやら同じ依頼を受けていたことを知った。
 いい度胸だ。依頼人としては念には念を入れてのことだろうが、事前に連絡を寄越さなかった事といい前金が両方に渡されている事といい何らかの意図が見える。主に賭け事の。舐められている。

「で、どうするの」
「降りないわよ。ここまで準備しちゃったんだしこうなったらこの道楽に付き合ってやる」
「だと思った。なら俺たちもなにか賭けようか」
「珍しいこと言い出すのね?何企んでんの」
「べつになにも。負けて悔しがるお前の顔が見てみたくなっただけ」
「悪趣味!変態!」

 涼しい顔してたまに言うことがおかしいということは知っていた。そして仕事がとても早いことも。
 の十八番は毒責めである。いつもならばそれで充分であったが今回ばかりはスピードが物を言う。臨機応変という言葉を思い出したのはイルミがいつの間にか消えていた時。はっとしたときにはもう遅い。イルミの前にはターゲットの死体が転がっていた。





「オレが勝ったわけだけど、特にして欲しいことがあるわけでもないんだよね」
「じゃあ!この話は無かったことに…」
「それは駄目」

 ピシャリと言い切られてしまい、は他に為す術なくスプーンを口へと運んだ。ふんわりとしたリモーネの甘酸っぱい味が舌の上で溶けての疲れ果てた脳髄に染み渡る。
 確かにそんなこちらにばかり都合のいい提案、受け入れられるとは思っていなかったが。あまりにも即答だったので食い下がる気も削がれてしまった。

「なんだか考えるのが面倒になってきたな」

 しばらく黙っていたと思ったら目の前の男はやおら口を開いてそうのたまった。チョコチップが山ほど入ったストラッチャテッラをひょいと掬って口に運ばれていくのを、………。と、三点リーダみっつぶん、たっぷりと間をおいて見つめは頭の中のなにかがプツンと音を立てて切れたのが聞こえた。

「アンタ馬鹿にしてんの!?私を好きにできる権利なんて、どれだけお金を出しても買えるものじゃないのに!」
「そうは言ってもね」
「膝に乗ってアーンしてくれと言われても今の私は拒否をしない!」
「もう全部食べちゃったよ」
「じゃあ私のをあげる口を開けなさい!」

 勢いのままにまくし立て、薄く黄色に色づいたジェラートを掬って勢いよく突き出すとイルミはの言う通りに口を開けてパクリと食べる。それを見てまるで一つの仕事を終えた後のように満足そうにしているを見てイルミはいつもの通り何を考えているのか分からないような表情で口を開いた。

「そういえば最近家を空けることが多くてさ」
「借家の方?」
「そう。仕事のときは現地で宿泊するってのもあるけど、できれば実家にいないときはあそこで過ごしたい」

 他にも隠れ家があるのだろうが、その口ぶりからするとお気に入りの場所であるらしい。

「でもいない時間が多いから。掃除が行き届かないんだ」

 なにやら雲行きが怪しくなってきたぞ。さっそく先ほど胸を張って豪語したことをなかったことにしたくなったであるが、イルミはのそんな内心の移り変わりを知ってか知らずか、まるでネズミを甚振る猫のような残酷さを以ってに宣告した。

「いいこと思いついた。よし、今日からお前はオレのメイドだ」





 ああ恥ずかしい。なんて屈辱。ありえないほどの恥辱。怒りと恥ずかしさ、どちらで顔が赤くなっているのかもわからない。
 散々”ご主人様”に向かって罵詈雑言を浴びせたは、幾分かすっきりとした顔でスケジュール帳を眺め調整をし始めた。こうなった異常イルミが簡単に意見を変えるわけがないと分かっていたし、それならば感情全てを心の奥底に押し込んで早く満足させて解放をさせればいいと頭を切り替えたのだ。どんなトリガーで感情が吹き出すかはわからない爆弾のようなものを抱え込んでしまったと思っているが、たとえ口約束だとしても約束は約束。約束は守る。それがの流儀だった。
 同業者、と言っても敵対をしているわけではない。ターゲットが被ることなど滅多にないし(それこそ意図的に仕組まれない限り)、仕事方法も異なる。面識はあったがプライベートな付き合いがあったわけでもないトップクラスの同業者の私生活を見れるということはにとってわかりやすい利益にはならないが知的好奇心を満たすには充分なものであった。たとえそれが色々な場所へ引きずり回され身の回りの世話をさせられ、冗談か本気かわからない塩梅でセクハラをされたり紅茶の淹れ方をマスターさせられたり訓練の相手をさせられて殺されかけたりしても、だ。
 なのでイルミの「実家に行くよ」という言葉にも、雑巾を絞る際引きちぎるほど力を入れてしまっただけで笑顔で応えることができた。


 本来ならば誰にも会わないはずであった。すぐに発つと聞いていたし、が付いてきたのも荷物持ち、その一点の理由しかなかったからだ。
 なのでがイルミの弟にあたるキルアという少年に見つかったのは極めて不運であり、ある意味でキルアの幸運とも言える。既に拷問とも呼べる”訓練”から抜け出してきたキルアが求めていたのは安息の地だ。そして安全という点においてはイルミの自室、というのは最高レベルのセキュリティであり一時的であれイルミの帰宅を知らなかったキルアが珍しく鍵のかかっていない扉を開け荷造りに勤しむに衝突をして彼女の仕事を増やすことになったのは自明の理とも言える。
 そして口先で見慣れぬメイドを丸め込み(元々部屋を守ることに乗り気ではなかったようなので簡単な作業ではあったが)、イルミが帰ってくるまでこの部屋にかくまってもらうという約束も取り付けたところで当然の疑問がキルアの頭によぎった。このメイドの正体だ。

「仕事仲間ぁ?」

 キルアは素っ頓狂を上げてに上目遣いで睨まれた。怖いメイドもいたものだ、と両手を挙げるポーズを取る。
 この家の使用人でないことは、の服装を見れば明らかであった。クラシックなメイドスタイルに身を固めた女。ゾルディック家は使用人に執事を採用していても、メイドを採用することはしていない。そしてなによりも長男のイルミの自室にいるという事実。只者ではないことは分かっていたが、まさか兄の同業者だとは思わなかった。

「もしかしてそういうプレイ?」
「ちっがう!!」

 うわー、大人の世界はやらしいなー、とニヤニヤするキルアには思わず声を荒げ、それに気付いて深呼吸をした。大丈夫、これはからかわれているだけであって私は大人。簡単に感情を乱したりなど、しない!よし暗示OK、と一息つき、「大体イルミがそんなタマ?」とが言うとそりゃそうだ、とキルアも納得をした。
 しかし、二人が”そんなタマじゃない”と判ずるイルミがをハウスメイドとして使い、傅かせているのも紛れも無い事実ではある。

 改めて自分の置かれている立場というものを客観的に見つめて、はわっと泣きそうになった。仕事はしばらく入れていなかったし、賭けに乗ったもの自分自身だけれども。自業自得みたいなものだけれども!メイドって!何を考えてるんだあの男!その怒りを紐を縛る力に込める。そう簡単には解けそうにも無い荷物が完成した。

「こんな趣味、今までおくびにも出さなかったくせにっ。どこでこんな知識を身につけるのよ、あの男!」
「…ブタ君の影響かねえ」
「え?」
「いーや、なんでも」

 なにやら気になる一言を発したキルアだったが、それ以上話す気は無いようだ。

「…それはともかく、イルミが探してるのって君なの?」
「うげっ、もしかしてなんか言われてんの?」
「あー、私捕まえる気とか全くないからウン」

 だからその殺気しまおうね、折角気配消してるのに意味ないよ。と緩めに言われてキルアは力を抜いた。どうやら対峙をするならば殺そうと思ってたこともバレているようだ。イルミの仕事仲間だと聞いてそう簡単にはいかないと思っていたが、まさか隠してた殺気を気取られるとは思っていなかった。戦闘要員ではなく後方支援の専門だと勝手に決め付けていたがそうでもないのかもしれない。

「んー、なんか馬鹿にされてる気分」
「気のせい気のせい」
「いやだなぁこの兄弟。…はぁ、なんであの男この部屋には来ないのかね。いつまで待たせるつもりなのよ」
「俺は来ないほうが助かるけどなー」
「きっとアレね。あの、なんて言ったっけ」
「灯台下暗しってやつ?」
「それよ。…ん、話をすればなんとやらね」
「かくまってもらうのはイルミが来るまで。だったもんな」

 ほぼ同時にこちらへ向かうイルミの気配に気付き、距離が近くなる前にキルアはまとめられた荷物の上から飛び降りた。

「ブラコンの相手も大変ね」

 キルアは窓から半分体を出した状態で思い出したように振り返り、に少しだけ本気の声音で言った。

「オレとしては少しでもアンタに兄貴の興味が移ってくれればいいんだけどな」





 冗談じゃない。と思ったものだ。
 それは今でも思ってるし、これからも変わるはずの無い意見だった。
 というかマジでこの男。恐ろしい!!

「アンタ殺す気っ!!!?」
「使えないメイドなんて生きてる価値ないだろ」

 ぜいぜい言いながらつい数瞬前まで自分がいた場所に針が刺さっているのを見て冗談じゃない本当冗談じゃないとはイルミを睨みつける。

「なによ!ちょっとこぼしちゃっただけじゃない!」
「お前の中では人の足に盛大に熱湯をぶちまけるのが”ちょっと”になるんだな」
「”申し訳ございませんご主人様”ッ!!!避けないご主人様も悪いんですからね!」
「ひどいメイドだ。主人の意向も読まないし」

 遠回しにゾルディック家でのことを責められ、はむっとした様子で顔を背けた。あの後は酷い目にあった。キルアをかくまっていたことがイルミにバレて殺されかけた。あの目は本気だったとは思っている。こんなところで殺されるわけにはいかないとも抵抗してなんとか回避できたが、今後は一切あの少年には関わるまいと心に誓った。

「それに関してはもうお仕置きが済んでると思いますけど」

 あそこまでされてまだ許されてないとしたらマジでこの男どうしてやろうか。恨みがましい視線で睨んでやるとイルミはそうだったな、と言うように軽く視線を動かしは少しほっとした。しかしその後に続いた仕草の意味を理解し顔を引きつらせた。

「ばっ、…かじゃないの…」
「言葉遣い」
「馬鹿ですねご主人様!」
「やるの?やらないの?」
「やりますよチクショウ!」

 少しでも衝撃を与えようと遠慮せずに腰を下ろしたが、あまりダメージにならなかったことは表情を見れば分かった。以前言った”膝に乗ってアーン”命令をここで出されるとは思わなかったが濡れた膝の上に乗れと合図してきたということは嫌がらせも兼ねているのだろう。スカートに水がしみこむのが分かって腰をずらそうとしたががっちりと腰に手を回されて動くことはできなかった。もうどうにでもなれとテーブルの上のケーキにフォークを突き刺してイルミの口元へ持っていく。何度かそれを繰り返して一口も頂いた。

「ん、おいしい」
「おい」
「はいはい紅茶ですね」

 有無を言わせずにカップを口元に寄せて中身を飲ませた。何してるんだ私、と若干第三者目線で己を省みてしょっぱい気分になったので糖分を摂取しなければと思ったのだ。別にいちごが食べたかったから奪ったわけではない。
 想像以上にケーキが美味しくて二口目を口にした時、頭を掴まれて口を塞がれた。最初は表面のクリームを舐めるように、そして飲み込む前のいちごを奪い取るように。バランスを崩しかけてテーブルに手をつくとカップの落ちる音がした。そのままテーブルの上へ縫い付けられるように押し倒され、口の中を貪られる。

「っ、イル、」
「…別に、嫌ならそれで構わないよ」

 ここでやめるし。の口端を舐めて、イルミはそんなことを言う。既に捕食者のような瞳をしているくせに、滅多に見せない表情になってるくせに、あんなに甘くて濃いキスをしたくせに。の中にいくつもの罵倒が浮かんでは消え、最初から逃げようと思えば逃げれたはずの自分の行動を省みる。
 答えは最初から決まっていた。

「いけないメイドには…、お仕置きをしなくてはいけないんですよ」

 ”恭しく”は笑い、イルミの手を先導する。イルミの手がスカートをたくし上げての太ももをなで上げる。手に触れたのはフリルのたっぷりあしらえた男を喜ばすことだけを目的に作ったような下着だった。スカートをめくり上げての下半身を見ると、白いストッキングはガーターベルトで吊り上げてあり、フロントにはたっぷりとフリルの着いた下着がそこにあった。病的なまでに白で統一されたスカートの中身は黒であるよりも性的だ。純潔を装ったそれに手を触れてふうん、とイルミはうなずいた。

「こんなの渡さなかったはずだけど。自分でつけたの?」

 いやらしいメイドもいたものだ、とイルミは笑っての服に手をかけた。





 汚れてしまった制服は洗濯をしてももう着る気が起きないくらいの有様で早々に見切りをつけて処分をした。今が身に着けているのは自身が早朝にわざわざ店に赴いて買って来たプレタポルテ、既製品のメイド服だ。イルミが用意したオートクチュールのものとは比べるべくも無いような肌触りではあったが体を動かすことに関しては特に問題もなさそうだ。

「あーあ…」

 しかし馬鹿なことをしたものだ。とは首に付けられた赤い鬱血を指でなぞり、少し襟を引っ張ってそれを隠す。いつもと違う服装、しかもこのようなコスチュームプレイでもしているような服装であったから過剰に演技をしてしまった節がある。昨晩の自分の言動を思い返すと思いがけず頬が上気する。馬鹿、馬鹿、私の馬鹿。弱みになってしまいそうなほど恥ずかしい。一番自分を愚かだと思うのは、それが嫌ではないと思ってしまう自分がいることだ。

「どこかに頭のネジが落ちてないかな…」

 乾いた笑いしか出ないこの状況だが、掃除ついでにやや本気でそれを探すである。
 それに今日は客が多くなりそうだ。気配には気付いていた。迎え撃つのは得意とは言えないが、主の留守を守るのもメイドの役目である。妙に板についてきちゃったな、と笑いながら、は損な役回り、とひとりごちた。



「だから言っただろう、お前は白が似合わないって」

 確かに昔そんなことを言われた気がする。あれは何時の日だったか、少なくともこの主従ごっこを始める前ではあったはずだ。思い返してみて軽く絶望をする。そんなに私はこの男と長い付き合いがあったのか。似合う色を言い合う仲に。そんな長い時間を歩みながら、ようやく一歩を踏み出したのは。その理由は。

「知ってる。何回聞いたと思ってんの…」

 新しく仕立てた純白のエプロンは余すところなく血を吸って赤黒く変色をしている。服もところどころ破れ、覗く素肌には裂傷ができていて見れたものではない。

「今日は、遅いんじゃなかったの」

 こんなみじめな姿は見られたくなかった。他人はもちろんのこと、イルミならばなおさらだ。

「予定よりも早く終わったんだ。それにお前、今逃げようとしてただろ」
「…留守を守れないメイドなんて、お役御免ものでしょう」
「それを決めるのは俺なんだけどなぁ」

 本来ならば、あのレベルの暗殺者などイルミの敵ではない上にが干渉するような事態でもなかったはずだ。それなのに無理をして相手を片付けたのは今の生活が壊されることを望まなかったからだ。はその事実に気付き、気付かなかった振りをしようにもそれはあまりにも大きな感情で、だからこそイルミが帰ってくる前に姿を消そうとした。
 認めたくなかった。何かに心を動かされる自分なんて。
 信じたくなかった。それがこのような男にだなんて。

 怪我人に対する手つきとは思えない乱暴さでイルミはをベッドの上に投げ、無事だった医療器具で動かないの手当をする。そんなイルミを見つめながら、は長かったような短かったようなこれまでの生活を思い出していた。そして、一つの結論に達した。

「ご主人様が直々にメイドの手当をするなんて聞いたことないわ」
「俺は優しい主だからね。馬鹿な真似したメイドを労わってやってるんだ」
「馬鹿な真似とは酷い言い草ね。忠誠心が高いと言って欲しいわね」
「忠誠心なんて微塵も持ってない癖に」
「わかっていて傍に置くなんてとんだ物好きね。…好きよ、ばか」

 イルミは羞恥で死にそうになっているを心なしか嬉しそうに見つめ、「メイドの癖に言葉遣いがなってない」と笑う。

「お仕置き、してくれるでしょう”ご主人様”?」

 押し倒されて窒息しそうなほどに激しく呼吸器官を塞がれ、はイルミの服をつかみながら、今溺れているような感覚に陥った。


 自分に似合いは血と喧騒。どんなに外見を繕っても血が、肉が闘いを求めている。本当はこんなフリルのついた服が似合うような女じゃない。水面のようなこの男の傍にいてもいい女じゃない。
 それでも、分かっているのに飛び込んだのは自分自身だ。馬鹿な女だと笑わずに受け止めてくれたのもこの男だ。水は纏わりついて離れない。
 どこまでも、望むままに。
 深く深く、沈めばいい。



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