それは深山に棲息するという、人のかたちをし顔赤く鼻高く、背には一対の翼を持つ一種の妖。風を自在に操り高い神通力は人をも操るというそれは人々に恐れられ、時には神として崇められる。中でも金色の翼をもつそれはうつくしく――別名を神の使いであるといわれる「八咫烏」という。一陣の風すらもそれが創り出す物でありその体には不老不死の霊薬が流れていると実しやかに噂されその血を求める者は多く霊山奥へと足を踏み入れるがたどり着くものは誰一人としていない。姿を捕らえることは難しく今では山奥の村々で語られる言い伝えの中での存在である。そして人々はそれを畏敬を込めてこう呼ぶのである――<天狗>、と。




薄い栗色の髪が若葉と共に風になびく。身につけた青を基調としたどこか胡散臭さを印象付ける衣装も、周りの膝下まで伸びた草に溶け込み妙に自然である、と感じてしまう。生活を荷い、自分の商売道具である大きな薬入れも今はその背ではなく草の上。その上には金色の羽を持つ、大きな烏が一羽、留っていた。

「春だな」
「そう、ですねぇ…」

春だ、その言葉の通り、今のこの季節は一年のうちで一番華やかな時期である。色とりどりの花が咲き誇り、冬と比べるとどこか柔らかな風が自然を揺らす。それに撫でられ烏は心地よさそうに緋色の瞳を細める。それを暫らく見ていると、どこかうつらうつらと頭が船を漕ぎ始めた。本来ならば睡眠を必要としない妖にとっては珍しい光景。眠ることは出来ても、夢は見ないし脳は眠らなくそれは人を真似たもので擬似でしかなく、たいていの妖は真似る事すら稀有である。だがこの金色の烏はそれをどこか娯楽として好いていることは付き合い上自然と知ったことである。それゆえに、この行為が後に何を引き起こすかはとうに知れたこと。

「眠らないでくださいよ…起こすのは私なんですから…」
「…なんで」
「おやおや…ご自分の寝起きの悪さをご承知でないので?もう薬箱の中身を荒らされたく、ないのでね」
「…そんなことしたっけ」
「しましたよ。お陰で、希少価値の高い薬草も見事に塵となりましたし、ね…」
「…なんだ、薬売り。まだ怒ってるのか?」
「いいえ?怒ってなど…」

烏はなにやら雲行きの怪しくなってきた会話を打ち切るべく薬箱の上から薬売りの肩へと足を下ろした。下ろされた三本の足を爪を立てないようにすれば、男から優しい手つきで体を撫でられる。心地よさに細めた視界に、風に乗り舞う自身の羽が映った。白でも黒でもなく金色。太陽の化身と云われる所以。そっと地面に降り立つと、薬売りの目の前から烏は消え代わりにふわりと金糸の髪をなびかせた青年が現れた。それは見るものを「うつくしい」と感じさせる容貌ないし雰囲気。その美しさゆえに雄としての匂いをまったく感じさせないことは本人にとって良いことなのか悪いことなのかは常に飄々としている彼からは感じられない。その緋色の瞳に映る薬売りは、どこか楽しげな様子で青年を見て笑った。

「ああ…何時見ても麗しいですね」
「…お前も、大概物好きだよな」
「そうですか?」
「妖の俺を斬らない時点でおかしいとは思ったけど、な」
「私に付いてきているお前さんも、随分と物好きですよ…」
「…くくっ、お互い様ってことか」

やけにもったいぶった口調さえも慣れれば低く響く声も相俟ってじんと体に伝わる。山を降りてからもはや十余年、長寿の妖である自分はともかく、目の前の男はただの人間ではないと分かっていたがここまで変化がないものだと実はあまり歳月は経っていないのかとも考えてしまう。だが、確かに時間は過ぎ去っている。同じくらい春も見たし過ぎ去った。何故、行動を共にしているのかはきっと出会った頃の出来事を思い出せば分かるのだろうが、今では思い出そうとはしない。そこに意味などはないからだ。もしかしたら思い出すことも出来ないくらい些細な理由だったのかもしれない。だがそれを知っているのは男と自分なのだが、その両方が思い出そうとはしない。すべては戯言である。

それに行動を共にするといっても、いつも一緒なわけではない。互いに自由に行動し、そして偶然出会うと一緒にいる。妙な腐れ縁もあるらしく、その頻度はわざと互いの行く先に待ち伏せをしているのではないか本気でと邪推してしまうくらいだ。別れのときすらも、「いつか、どこかで」と非常に曖昧な口約束ですらない約束をして分かれるのにも関わらず、その三日後に再会してしまう、ということもある。物の怪が呼ぶのか、物の怪に呼ばれるのか。正確にはは物の怪ではなく妖だが、それも本人にとっては微々たるものだ。斬る斬られるの関係ではないにしろ、本来ならば共存は難しい者同士。互いに稀有な存在。だからなのだろうか、近くにいて居心地が良いと感じてしまうのは。

「それに貴方の存在は神に近い…そう易々と斬れませんよ」
「ま…八咫烏だしな。簡単にやられるつもりもないし」
「何より…貴方の纏う風は心地が良い」
「……。ふ…ふふ、はははっ」
「おや…何か変なことでも言いましたか?」
「こんなかわゆい姿してても、本来は相容れない存在だぜ?く、くくく、それを抜きにしても薬売り、お前もおもしろいやつだ。まぁ、俺もおんなじなんだがな。ふふ、ふふふ、ああ愉快だなっ、何十年一緒にいても飽きない!」
「ふふ、光栄ですよ」

何かの箍が外れたように、金の髪を揺らして笑う青年に、薬売りは心外だと言わんばかりの目で見る。ついには薬売りの背中をばんばんと叩き出し始め、「痛いですよ…」と文句を言っても止めようとはしない青年に、言っても聞かないということは学習済みなのでされるがままになっていたが、数分後やっと落ち着いたのか青年はぴたりとその動きを止め、今度は薬売りの男の髪を引っ張り始めた。薬売りにはいつも『落ち着きが無い』と窘められるだが、今まで山奥にいて俗世となんにも関係を持っていなかったのだ。見るものすべてが珍しく見えるし、元々自分は好奇心が強い方なのだ。それは十数年で落ち着くものではない。それでよく昔人里の上空まで降りていって父上に怒られたものだ。ゆるく弧を描いた髪は柔らかく、手触りが良い。

じゃれているうちになったことなのだが、今の二人の体制は向かい合うように、しかし絡み合うようにして座っていて、いくら人気の無い場所だからといって知らない人間が見たら仲の良い男女が睦まじく戯れているようにしか見えない。知ってか知らずか、金糸の髪の青年はにんまりと笑ってぎゅうぎゅうと薬売りに抱きつく。薬売りも嫌がる様子は微塵も見せず、ゆるく抱き返す。そして青年が少し身体を離すと薬売りは自然と自分の上に乗っている彼を見上げる形へと成る。何の前動作もなく唇が重なるが、すぐに離れる。それを何度か繰り返す。このことに深い意味やいやらしい意味など微塵にもない。そこにあるのは単純な動物同士の愛情だ。居心地がいいから、すきだから口付けた。花を愛でることと何の変わりもない、それだけのこと。

だがやはり人気が無いとはいえ、人が通れば唯でさえ目立つ二人組。自然と目に入るものである。小さな兄妹が遠くから、ぽかんとした様子でそれを見ていたことを青年は暫らくして漸く気が付いた。近くの村の子供だろうか。小さな腕の中には親か何かに頼まれたのであろう、木の枝がいくつも抱えられている。小さな妹の世話をまかされた兄と、好奇心旺盛な年頃の妹。兄の方は”そういった”物事に興味を持ってもおかしくない年齢で、顔を少し赤らめた兄を妹が不思議そうに眺めている。そして青年と目が合った。この国では珍しい、金の髪に赤い瞳。この世の物ではないかのような風貌に、暫らく見惚れたように固まっていた兄だが、青年が小さく微笑みを漏らすと真っ赤になって妹を強く引っ張り駆けて行った。そして残されたつがいの片割れはくすくすと実に妖らしいいやらしい笑い方をした。

「人の子は可愛いな、いじらしい」
「あんな小さな子を、脅かしちゃいけませんぜ」
「脅かしてなんてない。ただ笑いかけただけだ」
「お前さんの場合は、それだけで脅しになるんですよ」
「ほお、初耳だ」

いつの間にか出ていた一対の金の羽がぱたぱたと揺れて何枚か羽根を風に舞わせる。いつも羽が出現するのは機嫌が良いときだ。そしてそれは金色の髪の毛と緋色の瞳によく映える。腰に手を回し、押さえつけておかなければ今にも飛び立ちそうだ。そこで何故押さえる必要があるのかと疑問に思ったが、目の前の笑顔にその疑問は吹き飛ぶ。

「そろそろ行きますか…日も暮れそうだ」
「ん…。俺は夜のほうが動きやすいんだがな」
「これから町に入りますから、飛んじゃ駄目ですぜ」
「分かってるよ。見世物として売られちゃうからなー」
「簡単には捕まらないでしょう」
「よぉくご存知で」

先に立った青年が手を伸ばして薬売りを立つように促す。それに掴まり薬売りが立ち上がると、ちょうど風に吹かれて揺れた金の髪が見えた。まだ上機嫌なのは変わらないようだが、流石に人目をつくこともあり羽は既にその背に無い。周りには先程までの金翼が幻でないと主張する羽根は数枚散っており、周りで咲き誇る花と同化してよく見なければ花だと勘違いをしてしまいそうだ。「ん、んん?」と、置いてあった薬箱を背負った薬売りがもう一度青年の手を掴んだのを見て、青年は疑問の声を漏らす。視線でも問いかけると、こちらもまた含みのありそうな笑顔を青年に向けた。

「お前さんは、こうでもしていないと直ぐにどこかへ飛んで行っちまいそうなんでね」
「子供か俺は」
「言動や行動は、似たようなもんでしょう」

なんだかものすごい言われようだが、山奥に住んでいたときも誰かにそう言われたことがあったような気がして青年は苦い顔をした。おそらくは自分のほうが遥かに年上なのだろうが、この薬売りの男は何かと自分を子ども扱いしている気がする。確かに自分は落ち着きが無いとよく言われていることは知っているので、ここはあえて反論はせずにもう少し大人しくしようかなぁという諦めにも似たおそらく達成はされないであろう目標を立てておいた。薬売りの手も自分同様紙のように白いが、自分よりは男らしい。だが自分の容姿は生まれた頃からこのような容貌であるし、人間みたく八咫烏である自分には外見に拘る理由はない。ただ愛しいと感じたものを愛で、心地よいと思った者の傍に居るだけだ。なのでどれだけ自分から雄の匂いがしなくとも本人は微塵とも気にしてはいない。ただ度々揉め事に巻き込めれるのはどうにかならないかとは思うが。

「どうしやした。また何か気になるものでも?」
「いや…なんでもない」
「そうですか。…さぁ、行きますよ、

薬売りの歩調は中々に早く、早足にならなければ付いて行けないこともある。それが原因で離れ離れになったり迷子になったりしたことは一度や二度ではないが、元々何故共にしているのかの理由すら分からない相手だ。そのまま別行動をとることだって少なくは無いが、どうやら今回は共に行動をしたいようだ。それは手を握る強さにも顕著に出ている。その力は痛くは無く、冬の暖炉のように離れがたいものだ。

「ふふ…”あなたとならどこへでも”、ってやつかな」

青年は楽しそうに軽口を叩き、前を向いている薬売りには見えないようににんまりと笑い、促す薬売りの手に応えるように強く握り返した。



そしてぽつぽつとした集落の集まるある村では、小さな兄妹が薪拾いの途中金色の天女様を近くの森の前で見たと言い張り、暫らくは娯楽の少ない村の中で実しやかに噂されたのであった。


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