夢とは何か。それは睡眠中にもつ幻覚であり、視覚的性質を帯び、時に聴覚・味覚・痛覚すらも引き起こす。一貫性は無く、宿主の深層的な野望希望を映し出すこともあるという。簡単に言うとすればそれは混沌である。人の数だけゆめがありそれは同じだけの業があるということ。目を瞑ればそれが見えてくるようではないか。皮肉的だが、目も覚めるような容姿を持つ一人の男は、通常時よりも少しだけ鈍いからだの動きを無視して起き上がった。妖魔の類である自分には睡眠は必要ないが、目を瞑れば仮初めではあるが眠ることは出来る。だが一度として夢などというものは見たことが無い。それはそうだ。これは人間を真似ての娯楽であるのだから。

「…お目覚めですか」
「ああ、…どのくらい寝てた?」
「一刻くらいでしょうかね、夢見でも、悪かったですかぃ?」
「…、夢なんて見ない」
「でしょうね」

分かっていて聞いてくる目の前の男はいやらしい奴だと再三思う。確かに夢というものがどんなものか気にならないとは言わないが、自分が見たいかと聞かれれば答えは否だ。あれは人間が見るからこそおもしろいのだ。自分にはとんと縁の無い話である。魔除けの証である赤い隈取りを見つめると、しなやかな笑みが返された。この男も、他の者とは少し性質が異なりはするが一応は人間である。寝ている姿はあまり見ないが、夢も、当然見るのだろう。

今回泊まる宿屋は、安かったにも関わらず中々の内装でありこれはいい物件だったと借りた後に思ったものだ。その後に店の女将の娘であろう女子から「ほんに、綺麗な夫婦さんですな、女将さんに言っておまけしておきますよう」と言われた時には少々ぽかんとしてしまったが、薬売りの男は知らないが自分はあまりそういったことに拘らない性格であるので、少しわざとらしかったかもしれないが薬売りの腕に自分のそれを巻きつけて、「そう、仲、いいんですよ。ねぇ、お前さん?」と見せ付けるように睦まじい様子を見せたのだ。これくらいで旅の路銀が少々浮くのならば、安い処世術である。薬売りもそう思ったのか、ふわりと揺れる金糸の髪の”妻”を引き寄せて、「…そろそろ、ややも欲しいと思っていたんですよ…夫婦ですからね」と見ている娘が顔を赤らめるほどの名演技を見せてくれた。

意識をしているわけではないのだが、どうやら自分は気付くと薬売りにくっついていることが多い。人肌が恋しいのだとか、そういったことは無いのだが、どうにも薬売りの側は心地が良いのである。胡坐をかいた薬売りのひざに頭を乗せてごろりとすると簡単に結っていた髪が解れる。それにも気にしないで天井を見ると、薬売りが先程からぷかぷかと吹かしている煙管の煙が上へ上へと霧散していくところが目に映る。

「今日は、やけにくっついてきますね、いつもはもっと淡白なのに…?」
「…そうかぁ?いつもと変わりないよ」
「そうですかい?てっきり、先程の戯れの続きなのかとばかり…」
「ああ、…あれは楽しかったなぁ。あの顔、見ただろ?少女の反応みたいで可愛かったな」
「お前さんも、大概悪いひとだ」
「お前だって、楽しんでたろあれ、絶対」
「否定はしやせんが…ね。続き、しますか?」
「ん?夫婦の真似事でもしたいのか?何をしたい?接吻か?それとも、夫婦の秘め事でも、興じるか…?」

おそらく抵抗はないのだろう、艶気のある、無邪気とも取れる笑顔で薬売りの着物の前合わせに手をかけてくる。乗りあがるようにして這う男の柔らかな髪をすいと撫でると、細い金糸が手に優しく絡みつく。煙管を摘みとり、机の上に置くと枝垂れかかるように男が薬売りの首に腕を巻きつけ、目の前で誘うように見つめる。麝香のような香気が当たりの空気に溶け出て、それを嗅いだものにあられもない妄想を沸き立たせる。これを先程の娘が目撃したのならば、先程など比にならぬほど顔を赤くして駆けて行くのだろう。口が付くか付かないかのところで止まりながら、男はそう思った。

するりという衣擦れの音が聞こえたかと思うと、腹の締め付けがゆるくなった。そのまま何度か口付けを交わしてから、後ろで薬売りの手が忙しなく動いているのが感じられたが、その意を汲み取ると男は少し不満げに顔を離した。

「つまらん男だな、乗ればいいものを」
「ふふ…まさか。ほら、帯が緩んでいましたよ」
「後で直すつもりだったんだ」
「貴方のは当てになりませんから…」
「お前が細かすぎるんだ。こんなの、誰かが見ているわけでも無しに」
「私の目の毒だとは考えてくれないんですねぇ…」
「そんなものなのか?お前の基準はよく分からん」
「そんなものなのですよ。ほら、髪も結って差し上げますから、前を向いて」
「だから、後で結うつもりだったんだ…ああ、分かった分かった、前向けばいいんだろ」

再び元の締め付けに戻った帯を手遊びに弄繰り回し、つんと引っ張られるように整えられる髪に意識を向ける。結う必要などないとは思うのだが、どうにも薬売りは自分の髪の毛を弄りたがる。そんなに弄りたければ自分のを弄くれと言ったこともあるが、それでは意味がないのだと返された。そんなものかと納得はしたが、どうにもこの間は暇でしょうがない。だが案外慣れると器用に動く手や引っ張られる感触が気持ちよく、癖になってしまいそうで困ってしまう。最後に簪かなにかを指されたのだろう感触を認めて、薬売りは「終わりですよ」と言った。自分の頭を触ってみると、凝ったのだろうか触っただけで複雑な結い方だと分かる。

「…俺に、今日はもう寝るなと?」
「いえいえ、つい夢中になってしまいやして、ね」
「で、この…簪か?くれんの?」
「欲しいのでしたら、どうぞ差し上げますよ。お似合いですし…」
「ん。あんがと」
「貴方は、いつも素直で可愛いですねぇ」
「ふっ、今に知れたことでもなかろう」

その言葉に反応するかのように、薬箱の中身からちりんという鈴の音が聞こえてきた。天秤が、中で男の言葉を聴いていたのだろう。主の意に反して時折天秤はこういった意思表示をしてくる。余程その中は暇なのだろう、薬売りが小さく嗜めると、文句を言うようにもう一度ちりん、と鈴が響いた。それに苦笑いをすると、男は可愛いじゃないか、と満面の笑みで言い放った。こうやって、甘やかすから懐かれるんだ。あいつらは最近やけに天狗の肩を持つようになってきた。

嵌め殺しの窓を見ると、既に日は落ちている。せっかく今夜は野宿ではなく屋根付きの宿で身体を休めれるのだから、そろそろ眠ろうかと考えていると男が神妙な態度でこちらを見ていた。その赤い瞳に映る自分を眺めて、どうしやした、と聞くと、寝るのか、と聞いてきた。そりゃあ、快適な睡眠を送るために宿を取ったのだ。眠るに決まっているが、今度は夢を見るのか、と聞いてきて目をぱちくりとさせることになった。

「それは、分かりませんよ」
「そうなのか?」
「ええ。見ても、覚えていないこともありやすしね」
「覚えてないのか。不便だな」
「悪夢なんかは、結構覚えてるもんですけど…」
「ふん、所詮夢だろう?怯えることはどこにある」
「ま…、そうなんですがね」

先程女将が敷いた布団に潜り込みながらそう言う。女将も女将で、「あらぁ、ほんに美人な夫婦ですなぁ。羨ましいわぁ」と言い残してにこやかに去っていった。それほどまでに夫婦に見えるのか、と疑問に思ったが、自分の男に見られない容姿では仕方が無いのかとも思う。派手な服装の薬売りに、異国ものものとして見られる髪と瞳の男。そうでなくても目立つ容姿なのだが、こんな奇抜な夫婦がいてもいいかという人々の思い込みからも来ているのではないかと考える。

娘から話は聞いていたのだろうか唯単に気を使っただけなのか、「お布団、一組でよろしいですか?」と言われたのに加え、人間ではない男は睡眠を必要としないこともあってにこやかに女将にそれでいいです、と答えたのだ。女将はやけに嬉しそうな顔で生き生きと布団を敷いて出て行ったが、当然そういう行為はしない。先程もおふざけで終わっている。だが、薬売りが寝ては一人になりすることも無くなるので、男は薬売りの寝る布団へと忍び込んだ。前は暇をつぶすために薬箱の中身をひっくり返し、強く窘められたのが尾を引いているのかもしれない。

「…なんですか?」
「起きてたのか」
「起きますよ、そりゃあ」
「起こしたか。悪い」
「寝るんなら、布団二組敷いてもらうべきでしたかね…」
「二組あっても俺はお前の布団に入るぞ」
「…なんの嫌がらせですかね。暖にはなりますが…」

言うと同時かそれより先か、薬売りにぎゅうと抱きしめられれば悪い気はしない。獣の子が母に甘えるように、男は薬売りに擦り寄る。薬売りは目の前の金糸に刺さる簪を抜き取り、側に置く。これでは、また明日髪を結ってやらねばならないだろう。本当に、手間のかかるお人だ。

「夢、見るのか」

もう一度、先程と同じ質問をかけられる。しかし、先程とは込められた意味合いが僅かばかり違うということはすぐに察せられた。

「…見ますよ」
「見るのか」
「人間、ですからね…」

くすりと笑う気配がしたが、目は開けない。既に半分夢の世界に呼ばれている身だ、腕の中のぬくもりがやけに気持ちが良い。腕の中の男も男で、その答えに満足したのか揺るく寝息を立て始めた。眠ることはできないが、眠れる妖。夢は見ないが身体は休まるのが早くなるのだという。そのことを頭の隅で思い返しながら、自分も眠りが深くなる。忘れて覚えていなくとも、夢は見るのだろう。だって自分は人間なのだから。

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