伸びた前髪が目に入った。睫毛がやんわりと半ば防いでくれたのでそんなには痛くなかったが、前髪を横へ掻き分けて目に入らないようにするのは今日でもう六回目くらいだ。いい加減鬱陶しくなってきて、近くにピンがないか探したけど見つからなかった。仕方が無いので頼りなさげに前髪を掻き分けたまま、再び手元の雑誌に目を落とす。しかし下を向いた瞬間にぱさりと(こんな音はしなかったけど。擬音語だ、擬音語)前髪が視界に入った。…このやろう。私は自分の前髪にほんのちょっぴり殺意を抱いてしまった。たぶん世界中を探しても自分の前髪に殺意を抱いた人間なんて私以外にはそうそういないだろう。あ、いや、世界規模なら三人はいるかな、最低三人。でも私の住んでいる町では私だけだろう。うん、きっとそうだ。

やっぱりそろそろ切るべきなのかなーと、持っていた雑誌をベッドの上に置いて、机の上にあった鏡を覗き込みながら前髪をいじった。前切ったはずなのに、もう伸びてきている。髪の毛が伸びるのが早いとエロいみたいなこと聞いたことあるけど、大丈夫、聞いた噂ではそれは男性に限る話で逆に女性は伸びるのが遅いとエロい…らしい…のだが、どうもガセっぽいなあ。真実は未だに闇の中だというのだろうか。すいません格好つけましたちょっと知ったかぶっちゃっただけなんです怒らないで。

そんなこんなで私は鋏を探して切る準備をした。何かを敷いてやるのは面倒くさいので、ゴミ箱に直接で行こう。よし、目の前にゴミ箱、机の上に鏡、手に鋏。よーし、準備おっけい。どのくらい切ろうかな…今回はちょっと短めにしようか…うん、ここらへんで切「あれ、髪切んの?」うわああぁい!!!


「あああ危ねェェェェ!!前髪の半分を危うく無くすところだったァァァ!!」
「え?俺?俺のせい?」
「手前ゆうやァァァ!!!!」
「え?ご、ごめん?一応ベル鳴らしたけど」


いきなりの侵入者の登場で私はかなり驚き手をすべらせ、斜めに前髪を根元まで切りそうになってしまった。ほ、本当危なかった、力入れなくてよかった。入れていたら今頃私絶望していたよ!そして伸びるまで外に出なかったよ!ちなみに侵入者の名前は匪口結也。確かに合鍵は渡しておいたけどね、後ろからいきなり声かけるのは止めよう?驚くから。それにベルくらい鳴らして……あれ?鳴らしたって言ったよな…。なんにも聞こえなかったけど。……ん?


「結也?」
「何?」
「ベル鳴らした?」
「うん。なんか俺のほうからは鳴ってるの聞こえなかったけど」
「…私も聞こえなかった」
「それ、壊れてるんじゃないのか?」
「うわー、マジでか。後で管理人に連絡入れなきゃ」
「そうしたほうがいいよ。んで、?」
「うん?」
「髪切んの?」
「うん、前髪」


私がそう言うと、結也は私の前に座った。前って言ってもゴミ箱をはさんでるから、そんなに近くない。いや、いつも近くで座ってるってわけじゃないよ。なんだろうと私が思っていると、私の手から結也は軽々と鋏を奪い取った。ん?何?なんで?危ないって?でも私鋏が危ないと思うほど子供じゃないんですけど。どちらかというと私のほうが危ないってこと?馬鹿と鋏は使いようっていうけど馬鹿には鋏を使わせないってこと?…このやろォォォ!!誰が馬鹿だ!!IQが全てじゃないんだぞ!大切なのは…えーっと、心だ!!


「俺が切ってやろうか?」
「…あ?」


おっと柄が悪くなった。言い直そう。


「え?」
「俺が切ってやろうか?」


私がきょとんとしていたら、結也は一字一句間違えずにもう一度そう言った。意味がよく通じなくて結也を見ると、やけににこにこしながら鋏をじょきじょきと開いたり閉じたりしている。ちょ、危ないよ結也。


「…なんで?」
「なんでって…やってみたくなったから」
「ふーん…じゃあいいよ。切って。変にしたら結也も同じ前髪に切りそろえてやる」
「大丈夫大丈夫、じゃあ目瞑って」
「ん」


私は結也にどこらへんまで切って欲しいかを言った後、目を瞑った。前髪を触られて、少しくすぐったい。鋏を持った人が目の前に居る状態で目を瞑るというのは結構な勇気がいるものなんだけれど、私はそこんとこは結也を全面的に信頼しているから大丈夫だろう。というか、彼氏にそんな危機感を抱いてどうするんだ、という感じだ。ちょっと前髪を引っ張られた気配がして、私も微妙に前に出てしまったら動かないで、と言われてしまった。あ、すいません。その直後にシャキン、と鋏の閉じる音と髪の毛がゴミ箱に落下するぱさりという音が聞こえた。お、切れてる切れてる。その音を聞きながらじっとしていたら、不意に結也の手が私の頬あたりをはたくように撫でた。


「む、なに」
「髪の毛かかってる」
「ん。終わった?目開けていい?」
「まだ。もうちょっと」


了解、と返事を返したら結也からちょっと笑ったような気配を感じた。なんだ、もしかして失敗したのか!?ちょっ、止めてくれよ。明日バイト入ってるんだよオイ。…いや、でも結也結構器用だからそんなことはないかな。うん、大丈夫大丈夫、結也を信じろ私。結也は一通り私の頬とかにかかった髪を払った後、また髪を切り始めた。…どうなってるんだろう、気になるなぁ。と、ちょっともぞもぞしたら「動くな」とぴしゃりと言われた。う。さっきより強い口調になってる。

暫らくして、また私の顔面にかかっていたのであろう髪の毛を払った気配がして、もう終わったのかな、目を開けていいのかな、と思って聞いたらまだ目は瞑ったままでいてと言われた。?なんだろ。まだすることあるのかな。言われたとおりにしていると、肩に結也の手が置かれた。そのすぐ後に頬に手を添えられた。…ん?おかしくないかコレなんでそうする必要が…流石に私も怪しんでいると、唇あたりに柔らかいものが当たった感触が…っ!!こ、こいつっ!!

状況をすぐに察知して反射で目を開けてしまったら当たり前だがすぐ目の前に結也の顔ドアップが畜生こいついい顔してんな!!!驚いて身体を引こうとしたら頬に添えてあった手が頭の後ろをがっちりホールドして私は動けなかった。身を全て任せる形になってうわあどうしようこれどうしたらいいんだこれと微妙に混乱していると結也はぺろりと私の唇を舐めて身体を離した。


「お礼頂き」
「…な」


離れた結也を見ると自分の唇もぺろりと舐めていてなんだかものすごくそれがエロく見えた。よく見るとゴミ箱は横にずらされていて(いつの間に…気配なかったぞ)、その中には少し前まで私の身体の一部だった髪の毛が間抜けそうに覗いていた。結也はというと私のことをまじまじと見ていて、私は結也が自分の切った髪の毛の完成度を見ているのだと分かっても座りが悪かった。そして私は流しそうになったことにはっと気付く。


「お礼って、結也が切りたいって言ったんじゃん!」
「細かいことは抜き抜き。上手くいったと思うけど?」


結也は私がこれ以上文句を言わないようにかさっと鏡を私の前に出した。鏡に映ってる私は微妙に顔が赤くて(見なかったことにする)、前髪の長さが数分前とは変わっていた。ちょっと考えていたのよりも短くなったけれど、うん、いい感じだ。本当器用だな、こいつ。


「うん、気に入った。ありがとう」
「どういたしまして」


前髪をいじりながらそう言うと、結也はにっこり笑った。う、可愛いな、こいつのそういう顔。じっとその笑顔を見ていたら、結也のにこにこはにやにやへと変わって私のほうへ近づいてきた。え、ちょっ、ちょっ待って。な、なんで、『にこ』の『こ』が『や』に変わっただけでこんなに変わるの!?可愛いなぁ、と思っていた笑顔は今度はいらやしい笑顔になって、あろうことか結也は「何?もっとして欲しい?」と見当違いなことをいいながらもう一度私にキスした。今度は簡単には放してくれないらしく、私は抵抗を諦めて受け入れることにした。前髪を切るわけでもないのに、もう一度私は目を瞑った。






例えば世界なんて


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