月には兎が住んでいると一番最初に言ったのは誰なんだろう。まだ天文学が発達していないころ、肉眼で空を見上げるといつの間に かぽっかりと夜空を切り取る丸い月に、昔の人はどんな思いを馳せていたのだろう。ただ夜になるとそこにあって、いつの間にか消えていく。次の夜には形を変え るそれは幻想的なものであったのか。今では誰も月に兎なんて住んでいないことを知っているし、信じていない。だが、どこかでその可愛らしい話を信じたいと思 っているのは少なくはないのではないだろうか。窓越しに見上げる月は満月で、窓に縁取られた一種の絵画のようにも見える。つまりはそれほど綺麗だということ だ。


、そんなとこで寝るんじゃないよ」
「…起きてるよ」
「言い換えよっか、そんなとこで寝転がるんじゃないよ」


ぐるりと視界が反転したと思ったら、私の近くに来て私を見下ろしながら小言を言っていた結也に身体を起こされていた。弱い風に乗ってシャンプーの匂いがした から、お風呂に入ってきたのだろう。優しい匂いだ。私も同じものを使っているので私からもその匂いはするのだけれども、結也が身に纏っていたらなんだかとて も素敵なにおいになってしまって、実は違うものを使っているのではないかと思ってしまうほどだ。視線をのろのろと上げると目が合った。あ。


「髪、濡れてる…。風邪引くから乾かしてって何回も言ってるのに…」
「え?ああ、あいつの世話してたら、自分のことすんの忘れちゃってた」
「しっかりしてるんだかしなないんだか。拭いてあげるよ」


そう言って私は抱きしめられている状態から抜け出して、近くに置いてあったタオルを掴むと結也の後ろに回って結也の髪をそっと撫で付けた。すぐに乾いていたタオルは水気を含んで、どれほど結也の髪が濡れていたか分かる。結也は言われなくてもじっとしていてくれてるけれど、なんだか子供の世話をしているみたいな気分になってくる。もうこんなに大きい男の人なのに。この部屋は寝室だが、今は電気がついていない。私が月を綺麗に見るために消したのだ。優しい月明かりだけがこの部屋を満たしていて、電気が無くても手元は狂わないだろう。

半分くらい乾いたところでドライヤーを持ってこようかと考えたが、寝付いたあの子が起きてしまってはいけないと思いやめた。それに私が立とうとすると結也が 私の腕を掴んだこともある。こんなことだけでときめいてしまう私の心臓はおかしいだろうか、いやおかしくないだろう。反語。どうしたの、と自然と優しい声が 出てしまったが、それに気付いた様子もなく結也はぎゅうっと私を再び自分の腕の中へと閉じ込めた。


「なんかさ、俺今すっげえ幸せ」
「結也?」
「今更だけど、…俺と結婚してくれてありがとな」


今結也の頭の中ではどんな映像が流れているのかは分からないが、なんだかとても泣きそうな表情で、でも、すごくうれしそうに笑った。私まで胸が熱くなっ て、少し震える手で結也を抱きしめ返した。頬に軽くキスをすると、照れたようにもっと強く抱きしめてきて、キスをした私が照れるような反応にものすごく幸福 になった。


「わたしも、…わたしを選んでくれてありがと、結也」





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「わたし思うんだけど、結也ってプロポーズの言葉絶対何回も頭の中で反芻して更にイメージトレーニングしてそうなイメージがあるんだよね」
「…何、行き成り。そういうさ、俺が居た堪れなくなるようなこと今更言うのって無しじゃないかな」
「だって、昨日の夜結也がいきなりあんなこと言うから、つい思い出しちゃったんだよ」


そう言うと結也は恥ずかしそうに顔を逸らしたので、私は追いかけて顔を覗き込んだ。すると手が伸びてきて私の目を覆い隠したが、一瞬見えた顔は赤くてとても 可愛いと思いました。今日は買い物に来ていて、車の中で何をしているんだとは思うが車の中だからいいよね、と思ってしまう自分もいる。暫らくそうやってじゃ れていたら、窓ガラスをノックする音が聞こえてそこに目を向けたら筑紫さんが車のすぐ横にいた。


「あれ、筑紫さんじゃん。どうしたの」
「筑紫さーん、お久しぶりです。お変わりないですか?」
「ああ、俺は変わりない。いや、ただお前たちの姿が見えたから、様子はどうだと思って。…邪魔だったか」
「そんなことないですよ、久しぶりに筑紫さんに会えてうれしいです」
「そうか。も元気なようでよかった」
「あはは、もうわたしじゃないですよ」
「そうだよ筑紫さん、もうこの子俺の奥さんなの」


そう結也が言って私の肩を抱き寄せると、筑紫さんは少し困ったように笑った。少し見せ付けているようで恥ずかしかったが、分かりやすく嫉妬している結也 が可愛らしすぎてそんな感情は二の次になってしまう。結也の奥さん。そういわれると、前から知っていることでもなんだかやけに照れてしまう。え、えへへ、私 結也の奥さんになったんだよね。


「仲が良いようで何よりだ。そういえば子供はどうしたんだ?」
「今日は二人で買い物したかったから、わたしの実家に預けてるんです。わたしたちの家から結構近いですし」
「あいつがいると取られるから嫌なんだよ」
「結也…自分の子供に嫉妬しないでよ」
「しょうがないだろ、俺はと一緒にいたいんだから」
「…あ、ありがとう」
「……ごほん、では俺は仕事があるからそろそろ行くな」
「!あ、はいっ!がんばってください!」
「じゃーねー筑紫さん」


一瞬頭のなかで筑紫さんが消えてしまっていた。すいません筑紫さんと心の中で謝っておいたが、残ったのは恥ずかしさだけだ。元上司にこんな姿を見られるなんて、恥ずかしくて身悶えそうだ。結也は結也で気にしていないようだし、なんだか小憎たらしい。原因は結也があんな恥ずかしいこと言うからなのに、……、…。うん、私も悪いよね…。結也との二人の世界を繰り広げるのは家の中だけでにしよう。今までに何度か心に誓ったことを再び誓いながら、私たちは当初の目的を果たすために車を走らせた。





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大量に買った生活用品や趣味のものを車の後部座席に積んで、自宅から数キロ離れたところに住居を構えるの実家へ車を向かわせる。既に日は暮れていて、濃いオレンジの空が少しだけ目に痛い。向かう途中、自然と切れた会話の合間を縫うように頭の中に浮 かんだのは、結也が両親に挨拶をしに来たときのことだった。母親には既に結婚のことを伝えていて、彼女は手放しに喜んでいたのだが、どうも父親にどう言えば いいのかが分からずにただ紹介したい人がいるとだけ伝えておいた。そのことを直前に結也に言うと、緊張が更に高まったと少しだけ弱気なことを言って、勇気を少しわけてくれと言われるままに抱きしめられていたところを父親に目撃された。せめて車の中でしておけば、見なかったふりをしてもらえていたかもしれないが、車を降りて玄関のすぐ前でしていたのが悪かったらしい。煙草を切らせた父親がそれを買いに行くところへばったりと出くわしてしまったのだ。

妙に気まずい雰囲気が暫し流れ、ひと言も言葉を発しないで扉を閉められたときはなんだか泣きそうになってしまった。しかし結也はそのことで覚悟が決まったらしく、家の中に入ると父親に真っ先に二人で考えていた言葉を結構な大声で言い放った。それに驚いた母親が台所から出てきて同じように言ったときは、両親と同じくまで少し呆然としてしまった。その当時はそこにいた全員が居た堪れなくなったことだが、今ではもう笑い話になるほどだ。もちろん結也はすぐに逃げ るのだが。

それを思い出して笑っていると、結也が怪訝そうな顔をしていたがそこは無視しておいた。家に付く頃には完全に日が落ち、あたりは真っ暗になっていた。昨日が 満月だったので、今日は月が出ていない。暗いから気をつけて、と手を引かれて家の中まで入ると、ようやく歩けるようになった1歳になる息子がよたよたと歩い てきた。


「ただいま。いい子にしてた?」
「俺たちが来たって分かるもんなんだな」


真っ先に母親である自分のところへ来た息子に結也は少々不満気味だったが、気にせず抱き上げたところで私の母親がやってきた。家に上がり話をしている途中で腕の中の子が寝てしまい、そろそろ帰ろうとしたところで大量に食材などを渡され、帰る頃にはこれ以上は乗せれませんというほどに車の中が一杯になった。


「たまには帰ってきてね。お父さんにも顔を出してあげて」
「うん。でもそれなら酔っ払って寝ていないでよって伝えておいて」
「うふふ、分かったわ。結也くんも、元気でね」
「はい、じゃあおやすみなさい」





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寝息を立てる息子をベッドに寝かせてから、車から大量の荷物を降ろしている結也の手伝いをしに行く。別にいいと言われたが、私がしたいの、と言うと結也は簡単に折れてくれた。全て運び終えたころには二人して息が切れていたので、私は運動不足解消を心に誓った。絶対結也よりも体力があると思っていたのに、仕事をやめたことや出産など色々あったから体が鈍ったのだろうか。ぜいぜいしながら買ってきたものの整理をしていると、息子が起きて近寄ってきたので抱き上げたい衝動を抑えて結也に任せておいた。最初はいやいやと暴れていたが、暫らくすると大人しくなって結也も目に見えてほっとしていたのでつい笑ってしまった。。結也が「こいつ俺よりのほうが好きなんだ」とぼやいているのは聞かなかった振りだ。私とその子が一緒にいるとき邪魔してばかりだからだよ、と思ったのは秘密にしておこ う。


昨日は結也に任せたので、今日は私がお風呂に入れる番だ。たまにお風呂のお湯を飲もうとすることにさえ気をつけておけば、入れている間は大人しいので楽とい えば楽なのだろう。お風呂から上がると結也は既に眠っていて、そっと何かをかけようと思ったが息子が思い切り強くぶつかりに行ったのでそれは意味の無い行動 になってしまった。


「……。たまに、こいつ俺のこと嫌いなんじゃないかと思うよ…」
「いやいや、きっと構って欲しいんだよパパに」
「だからって鳩尾にこなくても…。まあいいや、俺も風呂入ってくるよ」
「うん」
「…一緒に入る?」
「残念、わたしはもう入りました」


ちぇー、と子供のように拗ねながら脱衣所に向かう結也の後ろ姿を見ながら、息子がうとうとし始めているのに気付いて腕のなかでゆらゆらと揺らした。するとす ぐに目を閉じて寝息が聞こえてきたので、もう一度ベッドの上に寝かせる。今の時期は好奇心旺盛で、目を離すとすぐどこかへ行ってしまうのでしっかしと柵も立 てておく。歩けるようになってからの行動は激しいので、まだはいはいもできなかったころが懐かしく思える。

この子は夜泣きはあまりしない子なので安心なのだが、一応とのことで私たちの寝室に息子用の小さなベッドを置いている。電気を消すべきかどうか迷ってから、 私は消すことにした。そしてシーツにダイブすると、すぐに眠気が襲ってきた。今日は、色々と店を回ったから疲れたのだ。うとうととしだしたところで、ベッド がぎしりと軋み、結也が来たのだと分かった。薄く目を開けると、結也も横になるところでなんだかそれがとても愛しく見えて隣に横になったところを抱き寄せた 。


「ゆう、や」
「どうした、疲れてるんだろ?」
「んー。ふふ…」
「…何笑ってんの?」
「いやあ、…好きだなあ、って」
「……」


再びベッドが軋むのが分かった。それは結也が体勢を変えたからで、すぐに唇に柔らかいものがあてられた。数回軽いものをしてから、一回だけ深いものを。離れ るときには少しだけ息が上がっていて目も冴えてきた。無意識に掴んでいた結也の腕は少しだけ汗ばんでいて、変な気分になった。


「俺も好きだよ」
「…うん」
「…、なあ、
「ん?」
「早いかもしれないけど…二人目さ、欲しくない?」
「……、…ほ、しいか、な」
「…嘘、これはただの言い訳で、俺がが欲しい」


耳元で夫婦の秘め事とでも言うように囁かれ、眠気など微塵も残らないほどに吹き飛んだ。顔に熱が集まるのが分かり、ぎゅうと掴んでいる腕を更に強く掴んだ。 額、目蓋、唇、首元、とジ徐々に唇が落ちてきて鼓動も早くなる。左手薬指にはまっている指輪が体温の高さに反してやけに冷たく感じてその存在感を主張してい るように思えた。すぐ近くで寝ている息子が起きたらとも思ったが、すぐに何も考えられなくなる。熱い吐息が漏れて、熱も否応無しに高まる。疲れは一体どこへ 吹き飛んだのか、今は全く感じない。もう一度深くキスをして、優しく手を重ねた。











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