君の為に


一番最初に抱いた印象は奇抜の一言だったし、その後に聞いた悪夢のような演奏で本気で昇天しかけたが、それでもその男はその女にとってはかけがえの無いものだった。

「ふむ、そろそろ雪が降りそうだな。そなたは寒くは無いのか」
「私は寒さは感じませんよ」
「そうか、しかしそれは風流ではないな」
「ふふ、確かに」

一人、湖の傍に立つ青年がいる。彼の名は藍龍連。名家『藍』家の直系であり、若くして「龍連」の名を受け継いだこの世が生んだ鬼才の持ち主である。彼の放った言葉の通り、空は厚い雲に覆われ、今にも降り出しそうな様子である。この気温では、雪になるだろう。足元には朝露が凍り付いて歩く度にさくさくと音を立てる。その青年は会話をしているように喋ってはいるが、その場に居るのはその青年唯一人。もしも誰かが青年のことを見ていたとすれば、ここ一番の寒さに頭が少々おかしくなったのだと結論付けるだろう。しかし青年の頭はいつも突飛なことをして周囲を台風の如く巻き込んではいくが至って正常。ならばどうしてか?それは、彼の名前が藍龍連だということですべては説明付いてしまう。

「そなたの声は清々しい。まるで歌を聴いているようだ。そこは風流だと褒めてつかわそう」
「ありがとう。本当なら、生きてるときにこうして喋りたかったけどね」
「そうだな、しかし詮無いことだ。過去にとらわれては前に進めぬぞ」
「ふふ、それもそうね」

他の人間には見えずとも、龍連には見える。確かに龍連の横には女がいるのだ。髪は濡れたような黒、特別美人ではないが、笑えば野に咲く花のようにいじらしく可愛らしい。そしてその女が既にこの世のものでは無いことも、龍連は知っていた。

出会ったのは半月前。この世の様々なことを目にしようと旅を続けていた龍連は、その道中でこの湖に立ち寄った。ここらで鹿が出ると聞いたので、今夜は鹿鹿しい鹿鍋だ、と思い準備をしていたのだが、目の前に現れたのは鹿ではなく一人の娘だった。こんなところでなにをしているのか、名はなんというのだ、と聞けば、女は驚いたようにあなたは私が見えるの、と聞いたことの答えになっていない答えが返ってきた。そして数回言葉を交わすうちに、龍連は女の正体に気付いた。しかしだからといって取り乱すでもなく、龍連は自分の親愛の情を伝えようと鉄笛に手をかけた。そして何故か女の姿が半分透けたところで、目当てであった鹿がふらふらと覚束無い足取りで近くに倒れてきた。なにやらひどく憔悴している様子だったので、この寒さの中、野生の鹿も生き辛いのだな、と勝手に結論付けておいしくいただいた。女にも勧めてみたが、私は食べられませんので、と断られた。

「む、即興の曲が思い浮かんだ」
「…え!?」
「『君がため 惜しからざりし 腹さへ』」
「…その心は?」
「そなたに会いたくてここまで着たが、腹が減っているのを忘れていた。そしてそなたに会ったらそのことをもっと忘れていた」
「……」
「(ぷピー)」
「…!!」

ここで笛さえ吹かなければよかったのだが、即興の曲ができたと聞いた時点で逃げればよかったと女は後悔した。この笛には除霊の効果もあるのだろうか、それほどまでに芯にまで響いて気を抜くと天に召されそうだ。何故、自分がこんな状態になったのか、それはどうしても思い出せない。誰にも姿が見えなく、一人ずっと長い年月を過ごしてきた。この湖で何かがあったのかもしれない。だがここは人里離れた場所。めったに人は来なく、最初はもしかしたら覚えた居たのかもしれないが今は何一つ思い出せることは無い。そしてすべてを諦め、自縛霊となり掛けていたとき、龍連はすさまじい笛の音と共に現れた。あれは比喩ではなく天国へ上りそうだったが、うれしかった。私を見てくれた。今までも、ここの湖へ魚を捕りになどで人は来ていた。だが、誰一人として私を見ない。私に気付かない。どんなに近くにいても、だ。だから、うれしかったのだ。

「そなたはずっとここにいるのか」
「ええ、たぶん」
「私はもうそろそろ旅に出なくてはいけない」
「…そうですか」
「そなたを連れて行きたい」
「…そうです……は?」
「そなたは別にここに縛られる理由などないのだ。あったとしても、覚えていないなら意味はない」
「え、ええ?で、でも」

何を断ることがあるのだ、一緒に連れてってくれるというのだ。もう一人じゃないのだ。願ったりではないか。

「私はそなたに色んな景色を見せてやりたい。ここにはもう飽きたであろう」
「…あ」

はい、と頷いて差し出された手をとると、確かに体温を感じることが出来た。不思議な人だ。自分の涙も拭える。おかしな人だ。自分を連れて行こうしてくれる。ああ、この人は、神様なのかもしれない。








世界さえ









裏切るだろう



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